愛のラングレー 1980

宮田あやこがレコードデビューしてから今年で40年がたつ。過ぎ去った時の流れを思うと愕然とするし、セピア色に変わった記憶も数多くある。しかし時を経てもつい昨日のように思いだせる記憶があるから不思議だ。

 

1980年6月、宮田あやこは札幌/東京で行うデビューコンサートのため信濃町にあるCBSソニー・スタジオ地下のリハーサルスタジオでリハーサルを繰り返していた。バッキングメンバーはギター今剛。22歳ながらスタジオミュージシャンとして引っ張りだこで、天才ギタリストとして名をとどろかせていた。ギター藤田洋麻は久保田麻琴&夕焼け楽団、サンディー&サンセッツのメンバー。キーボード井上鑑は作編曲家としても実績を積んでいた。ベースマイク・ダンはニュー・ジーランドから来日し多くの音楽家に影響を与えていた。ドラム上原裕は山下達郎のシュガー・ベイブのメンバーだった人。

 

新人には贅沢すぎるものだったがこの選択には危険もはらんででいた。一流の音楽家は手抜きをしない。実力がなければ新人歌手など簡単にふっ飛ばされる。あやこが在籍していたエピック・ソニーは1978年に出来たばかりのレコード会社で、制作部長丸山茂雄さんをリーダーにユニークな音楽家を輩出していた。また音楽家の成長を長い目で見守ってくれた。例えばあやこと同年4月に同じエピックからデビューした佐野元春は3枚目のアルバム「SOMEDAY」でセルフ・プロデュースをするまでに成長している。

 

その時期、あやこにCMソングを歌う話が舞い込んだ。エピックスタッフの尽力あってのことだが、同年夏に発売される日産プリンス「ラングレー」のための曲だった。あやこのデビューアルバムは前年6月より制作開始されており、プロデューサー松本裕とあやこはコマーシャリズムに毒されないアルバム作りを模索していたが、1980年代に差しかかり、時代は刻刻変化していた。今思えばエピックはあやこをそういった時代にソフトランディングさせる道の模索をしていたのだと思う。

 

リハーサル終了後、CBSレコーディングスタジオに場所を変え、バンドごと移動し「愛のラングレー」の録音は始まった。作編曲は井上鑑、作詞松本隆。リハーサルですっかり温まっていたバンドはほんの数テイクで3分24秒のテイクを録音完了。その後、池袋サンライズスタジオに移動、あやこのヴォーカルを録音する。パンチイン&アウトなしの正真正銘の一発録音だった。あやこは一日でコンサートリハ、CMリズムトラック録音、ヴォーカル録りをこなしてしまったのだから、当時は元気いっぱいだった。プロデューサーもあやこの声帯のタフさに驚いていた。

 

あやこのデビューシングルはメリー・ホプキンの大ヒット曲「悲しき天使(1967)」に松本隆が詞をつけ今剛が編曲した「ノスタルジア」として完成していた。アルバム発売は7月21日に予定されていたが、発売一カ月前の時期、エピックはこの「愛のラングレー」をアルバムに入れることを打診してきた。松本隆に作詞をさせるほどだからあらかじめエピックにはこの戦略があったのだろう。しかしプロデューサー松本裕とあやこは反発し、すったもんだの末エピック側が折れこの曲はアルバムに採用されなかった。今改めてこの曲を聴くと、なかなかよくできている。井上鑑のアレンジは練られているし演奏陣のノリも素晴らしい。アルバムにふさわしい曲かはともかく、制作陣にCMだからと言って手抜きはまったく見られない。ご機嫌なロックンロールに仕上がっている。新人のセールスを考えれば、この曲をアルバムに入れたかったエピック側の考えは今になってみるとよくわかる。

 

コロナ禍で巣ごもりの日々、you tubeを眺めていたら、ひょんなことから「ラングレー」のCMが見つかった。15秒の短いヴァージョンだったが、あやこのエネルギー溢れる歌声が聞こえてきた。娘に「こんなのを見つけたよ」と送ったら娘がツイッター&facebookにアップした。予想以上の反響に驚いた。この曲をずっと探し続けた人もいるらしかった。

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日産プリンス「ラングレー」はあやこデビューと同じ1980年夏の発売で、スカイラインミニとも称され、当初はハッチバック車のみで若者向けの車だった。1990年の終売までモデルチェンジを3回、マイナーチェンジを数多く繰り返しその都度CMが変わり、CM曲も入れ替わった。「ポールとポーラのラングレー」と呼ばれ「ヘイポーラ」がCM曲だった時期もあった。あやこが歌ったのはその初代のもので、ロングヴァージョンCMには歌/宮田あやこと記されたから新人の知名度を広めるにはそこそこの効果があったのだろうけど、正規盤として発売されないのではそれは限定的だった。

 

翌年1981年日本レコード大賞は寺尾聡「ルビーの指輪」にあたえられた。編曲の井上鑑が編曲賞を、作詞の松本隆は作詞賞を受賞。松本隆が詞を書いた大瀧詠一アルバム「A LONG VACATION」もこの年である。時代は風雲急を告げていた。様々な音楽が生み出された。そんな波に乗り、エピックは80年代に急成長を遂げた。山下達郎の特集がロンドンのネットラジオで組まれたり、この時代の日本のロック&ポップミュージックがシティ・ポップとして海外から高い評価をされていると聞く。

 

あやこのアルバム「レディ・モッキン・バード」7月21日発売同日に坂本龍一プロデュース/大貫妙子「ロマンティック」細野晴臣プロデュース/サンディー「イーティング・プレジャー」林立夫プロデュース/今剛「スタジオ・キャット」が発売されている。このラインアップを見ただけで当時の活況が分かろうというものだ。旧来の常識を覆し、新しい風を吹かせようとしたのが60‘s&70’sの音楽だとしたら、80‘s以降の音楽はロック&ポップのコマーシャリズムと折り合いをつけた新たな展開への模索時期だった。

 

あやこのメジャーでの活動は80年代に70’sのノスタルジーとともに終えたが、あの時代の曲の多くが今でもあやこのレパートリーにあり、古さを感じさせず輝き続けている。1980年、様々な音楽家が試行錯誤していたあの時代の息吹をじかに浴びたことは、あやこにとって何物にも代えがたい財産となって今でも生き続けている。

 

 

 

 

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彼の名はモク

昔(昭和30年代初め)一軒家に住む多くの家庭は犬を飼った。「名犬ラッシー(コリー)」「名犬リンチンチン(シェパード)」アメリカテレビドラマの影響もあったのだろう。家の番、残飯処理が主な仕事だった。厳寒でも猛暑でも家の外で鎖につながれるなどして飼われた。家の中で飼うということはなかった。我が家に犬がやってきたのもそんな時代、雌のシェパード成犬で名前もすでについていてアミーといった。ドイツのコンテストで優秀な賞を取った血統証付きの犬ということだった。

 

一緒に近所の三角山登山をしたり、すっかりなついていたが初冬の寒い朝、突然アミーは7匹の子犬を産んだ。しかし一匹だけにしか対面できなかった。残りの六匹はアミーが食べてしまった、と親から聞かされた。聞かされた時はショックだったが、動物界では不思議なことではない。生命力がない子犬は親に駆除されてしまう。と後になって知る。

 

残された一匹は灰色がかった茶色の毛むくじゃらの雄の子犬で母親のアミーにはちっとも似ていなかった。雑種だった。父親はどこの馬の骨やら、分からずじまいだった。その当時幼年雑誌「日の丸」に連載されていた漫画、杉浦しげる作「もくもくどんちゃん」に登場する犬にそっくりだったので母親が「モク」と名付けた。

 

シェパードぽくはなく洗練されていないが大柄で馬力あふれる成犬へと成長した。子供の力ではもちろん、大人でも鎖で散歩させることは困難だった。だからたまに鎖を外し自由にさせた。放し飼いに世の中も比較的寛大だった。脱兎のごとくダッシュして消え去り何日も帰ってこないこともあった。当時は野良犬も多く、その辺にたむろしていて怖かった。しかしそんな猛犬たちを引き連れモクはいつも先頭にいた。近所に飼われている雌犬が子犬を産むとどこかモクに似ていた。みそ汁のぶっかけご飯など匂いを嗅いだだけで口にしなかったが、肉屋からもらってきた豚の骨を与えると気が狂ったように興奮して食べた。おあずけ、お手、待て、伏せなど仕付け的動作は一切しなかった。

 

ある時モクが家に帰ってこなくなった。それは数カ月にもわたり、どこかへ迷って行ってしまったか、札幌市がまく野良犬駆除の毒えさを食べて死んでしまったのだろうと諦めかけていた。ところが当時北海道庁の運転手をやっていた父親が仕事で車を走らせていた時、モクが父親の車を見つけ後を追ってきたのだ。仕事中なので父親は車を止めることができずにいたが、モクは諦めず後を必死に追い続け、父親が家に連れ帰り再会を果たした。

 

ある日妹が白い捨て子犬を拾ってきて家で飼うことになった(すぐに死んでしまったけれど)。モクに対面させるのには躊躇した。もしモクを怒らせたら子犬はひとたまりもない。しかしじゃれる子犬にモクはされるがままだった。子に対する親犬のようだった。

 

ある日近所にディズニー映画「百一匹わんちゃん大行進」のモデルになった猟犬ダルメシアンが飼われてきた。アニメでは人懐こく描かれていたが実際は野性味あふれる猟犬といった趣で、鎖につながれているのにもかかわらずそばに寄れない怖さがあった。モクには会わせたくないなと思っていたが、嗅ぎつけモクは早速あいさつに出かけた。二匹が対峙した。向かい合ったまま二匹とも無表情で全く動かなくなった。にらみ合っているわけではないのに、そこに居合わせた僕は映画で観る侍の果し合いのようなただならぬ気配を感じた。どのくらい時間がたったのだろう。このままでは殺し合いが始まる、そう感じた僕は二匹を引き離そうと道路の石ころを拾い、モクにぶつけた。

 

そこからの光景は実はあまり思い出したくない。石ころが当たった瞬間、僕のヒーローだったモクは今まで聞いたこともない「キャンキャン」と子犬のようなかん高い鳴き声を上げその場から慌てふためき逃げだしたのだ。勝てないと思うならダルメシアンは鎖につながれていたのだから、モクは何食わぬ顔でただその場を去ればよかったのだ。しかしモクはそうはしなかった。蛇に睨まれた蛙状態だったのかもしれない。そんな恐怖の中モクがかろうじて持ちこたえていた闘争心に僕が水を差したのだ。戦っていればモクは軽傷では済まなかっただろう。これで良かったのだと思う反面、動物の本能の戦いに介入しモクには申し訳ないことをしたとも思った。

 

10年生きたモクの最期は静かなものだった。餌を食べなくなりじっと犬小屋にいたまま何日かして息をしなくなった。近所のポプラ数本がそびえたつ野原に父親と埋めた。それ以来僕は動物を飼っていない。

 

 

 

 

 

 

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遷都論が起きないはずだ 利権の東京集中

10月17日、IOC会長の東京五輪マラソン/競歩札幌開催発言から端を発した騒動は札幌に正式決定し、東京都知事の自己アピールパフォーマンスも終わり、やっと落ち着き始めたようだけど、利権にうごめく人々の実態/本音が垣間見え、それなりに興味深い出来事だった。

 

中でも札幌に住む僕にとって看過できなかったのは札幌市(地方都市)への軽視/蔑視発言だ。東京にあるテレビ局を中心にした(大阪も)「札幌なんて田舎都市に何ができる」的視点。普段立派に世相を語る人たちから「盗人猛々しい」などという発言も飛び出し、ちょっと驚かされた。

 

確かにIOCからの一報が入ってすぐ札幌市長は囲み取材で「光栄なこと」と発言してしまったから「棚から牡丹餅」に嬉々としている様子がバレバレになってしまった。この市長さん、プロ野球日本ハムが新球場建設のため札幌ドームをホーム球場として使わないと発表した時も 去るもの追わず と第一声で言って大ひんしゅくをかった[前歴]をすっかりお忘れのようだ。市長のお人好しの発言にカチンときた東京都民がいてもおかしくはない。

 

僕が観たTV局の当初のアンケート調査では「札幌がいい」「どちらでもいい」合わせると「東京がいい」をはるかに上回っていたのだけど、直近の毎日新聞の調査によると東京開催支持派が半数を上回るとのこと。メディア挙げての「田舎に何ができる」キャンペーンが功を奏したようだ。

 

例えば元マラソンランナーが発言をしてもそれは陸連の意向を受けたり、自分を支持してくれる組織に気を配った発言ばかりでどこまで自分の言葉で発言しているのかはなはだ疑問だった。少なくともTVに出演して発言した関係者はみな忖度人ばかりだと思っていい。「東京五輪の理念に疑問を持ち始めている」と語っていた有森さんはどこかのTV局で発言したのだろうか。東京五輪は大きな利権の塊になっておこぼれ頂戴グループが跋扈している。札幌にマラソンを持っていかれるなどもってのほかなのだ。

 

今年東京に住み始めた娘は、北海道の冬は油断したら命を落とすけど東京の夏も同等である、といっている。そんな風土での競技実施なのだ。しかも命にかかわるのはマラソン/競歩だけではない。そんなクレイジーな環境での五輪。これを機にもっと建設的な議論があっても良かった。引き受けることとなった札幌市は2030年冬季五輪に立候補しようとしているが、何かイベントを起こせば経済が活性化する的な視点しか持てないなら今回の東京五輪騒動の二の舞が起こるのは必至だ。

 

札幌でマラソン/競歩が実施されると夏の観光名物大通公園のビヤガーデンがなくなると嘆く声も聞こえるが、ビヤガーデンがなくなったって、札幌にはすすきのという歓楽地があっていつだって代替え可能だ。本物の酒好きはあんな下品でやかましいビアガーデンには足を運ばない。

 

ついでに言わせてもらえば、大通公園は今や季節を問わずイベント会場になり果てていて、市民の憩いの場所的な風情は年々薄れていく。イベントが開催される都度、観光客が増え市民が足を運ぶのだろうけど、その陰で泣く人々も多い。例えば何年か前まで大通り公園がメイン会場だった札幌シティジャズ。その期間札幌のジャズバーはみな閑古鳥が鳴く。市が観光優先で始めたイベントでジャズの地域振興のことなど頭にないからだ。札幌市が運営を丸投げした外部組織のプロデューサーがすでに二回も逮捕されている。国からの運営金でまかなわれているからなのか誰も責任をとらない、スポンサーをなくしたくないメディアも追求しない。

 

僕は個人的には札幌五輪開催には賛成だった。それは1972年開催の記憶がまだ残っているから。なにより子供たちが喜んだ。外国人を札幌で見かけるのも珍しい時代、大挙してやってきた選手/大会関係/観光の外国人たち。子供たちは世界を初めて実際にイメージすることができた。当時小学生だった向井さんは街で外国人を見かけるたびサイン帳にサインをもらっていたそうだ。「町ができる、美しい町が」トワエモアの歌うイメージソングも良かった。

 

僕が信頼しているスポーツ担当新聞記者さんの見解によると札幌市が冬季五輪立候補を予定している2030年はアメリカの都市も予定していて最大のライバルになりそうとのこと。しかし今や五輪の存続が危ぶまれるほど立候補する街が激減している現状においてIOCにとっては運営実績のあるアメリカの都市と札幌は逃したくない場所なので、2024年2028年夏のオリンピックをパリ、LA二都市同時に決めたように2030年、2034年の開催は札幌、アメリカの二都市が同時に決まる可能性が高いとのこと。

 

1964年、1972年の20世紀の日本五輪がそうであったように、21世紀の理念を持った冬季札幌五輪あってほしいと思う。そういった方向性が打ち出せるなら、札幌冬季五輪開催を支持しよう。でも現状では望むべくもないか。

 

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今再び 永遠の福居良さん

村上春樹氏のエッセイで驚きをもって紹介されたことがある、シネコンなるものが誕生する遥か前から札幌劇場をメインとした複数の映画館を常設したエンターテインメント施設スガイディノスが入るスガイビルが老朽化と再開発のためこの62日幕を閉じた。

 

 オープンは1968年。最上階にあった札劇は70mmを観ることのできる座席数882を誇る大劇場だった。当時封切りは大作を除き二本立てで、一本がメインもう一本はおまけ的な作品だった。入れ替え制でなくメインが気に入れば二回見ることも可能だったので、高校生だった僕は一階にあった立ち食い蕎麦屋でかけそばとおにぎりを食し長期戦覚悟で映画鑑賞に臨んだものだ。

 

札劇及びスガイディノスには親子3代にわたってお世話になった。父と母は琴似町字宮の森から凸凹砂利道の北一条通りを自転車に二人乗りして観に出かけたそうだし、「西部開拓史(1962)」は木造だった札劇で家族5人が揃って鑑賞した最後の映画だった。「フィクサー(1968)」は学校で団体鑑賞するはずだったのに映画館に集合させながらカトリック校だった高校側の自主規制で鑑賞が中止になった。ジョン・フランケンハイマ―の力作を楽しみにしていた僕は怒り心頭、窓口で金を払えば文句ないだろうと再入場。館内に残っていた教師たちにじろじろ見られ、内心はびくびくだったのだが、おとがめはなく一緒に鑑賞した。

 

 ゲームセンターには息子がお世話になった。大人しい性格だったが、スガイのゲーセンでは最高得点を連発しスターだった。後にゲーム制作会社に勤め、息子が制作にかかわったアーケード・ゲームがスガイにも置かれた。たまに様子を確かめに行って息子のゲームを楽しんでいる人たちを見てホッとしていた。

 

スガイビルが出来たのが51年前、その8年後1976年に発表されたジャズアルバムがいま世界のジャズファンから注目を浴びている。札幌を拠点に活躍し4年前67歳で他界した福居良さんのリーダーアルバム「SCENARY(シーナリー)」がそのアルバム。Youtubeに英国だか米国のジャズファンがアルバムごとアップしたのがきっかけで、現在800万回を超えるアクセス数がありなお増え続けているそうだ。ちなみに同時期にアップされた坂本龍一のBEST OF RYUICHI SAKAMOTOのアクセス数は500万回。世界の坂本を上回るものでタワーレコードでは福居良常設コーナーが置かれ、生前生演奏を聴かせた札幌にあるジャズ・クラブ「SLOW BOAT」は聖地として外国人観光客であふれていると聞く。

 

 福居良さんにはSLOW BOAT開店前BAR GERSHWINの前身GOLDEN SLUMBERSで演奏してもらっていたし、宮田あやこもヴォーカリストとしていろいろな場所で共演していたから良さんの素晴らしさはもちろんわかっている。GOLDEN SLUMBERS~GERSHWIN数多くのピアニストが演奏していった。同じピアノを弾いているのに素晴らしいピアニストはそれぞれの音色を持つ。良さんのタッチは強かった。ごまかしがなかった。二時間演奏すれば調律はぼろぼろだった。しかし鍵盤の髄まで音を響かせていて演奏中調律の狂いをそんなに感じさせなかった。その素晴らしい音色は今でも脳裏に刻まれている。

 

 

「シーナリー」でベースを弾いているのが故伝法諭さん。陽気なときはいろいろなことをおしゃべりしてくれた。「僕「シーナリー」を見つけたら全部買い占めたい。」。「シーナリー」での彼のプレーはその音色といいその後の彼の原型を感じ取れるものだが、録音時26歳、ウッドベースを始めて数年での演奏。彼にとって必ずしも満足いくものではなかったのかもしれない(ジャケット写真の髪形をが気に入らなかった、という説も。)「シーナリー」から22年後に録音された宮田あやこのアルバム「ロッカバイ」。「サマータイム」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」演奏後の伝法さんの満足そうな表情を忘れることができない。

 

 良さんも22歳でピアノを始め、たった6年間でこれだけの演奏をしている。ネットはもちろんなく、ジャズを教わる音大もなく、手取り足取り教えてくれない時代、演奏家たちは皆必死にレコードを聴き、演奏を聴き、先輩にいじめられ腕を磨いた。良さんはあるグループにいたときリーダーから「youほど下手なピアニスト聴いたことない。」といびり続けられたそうだし、ピアニストの故辛島文雄氏はエルビン・ジョーンズバンドに加入していた時期、何も言ってもらえなくノイローゼになり帰国直前どうなってもいいと開き直って弾いたら「そう、それを待っていたんだ。」とようやく認められたとあやこが共演した時話してくれた。多くのジャズミュージシャンはジャズが好き、その一念で逆境を克服している。

 

 時代は今みたいに優しくはなかった。みな試行錯誤していた。しかしジャズにかける情熱は溢れんばかりにあったあの時代の音楽が「シーナリー」からは聴こえてくる。

 

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SUCHMOS アリーナツアー2019札幌

「ミュージック・マガジン」が創刊50周年を記念して、20194月号に創刊号の復刻版をおまけにつけている。創刊時は「ニュー・ミュージック・マガジン」といった。当時僕は17歳、ロックを紹介する音楽/写真誌はあっても活字だらけの評論誌は日本初だったので、名物編集長中村とうようさんの強烈な個性と相まって毎号を楽しみにしていた。

 

 50年前はというと1969年である。激動の60年代であったが、サブカルチャーをリードしたアメリカからの文化/流行、流入には今の時代と違い結構なタイムラグがあった。筆者たちもまだ手探りで、新しい音楽(ロック)と向かい合っている。

 

 

創刊号の特集は「アート・ロックと白人ブルースのよくわからない関係」。中村とうよう、桜井ユタカ、水上治(水上はる子?)各氏のディスカッション(!)などにロックが深化し始めた時代への戸惑いとか期待を感ずる。ほどなくアート・ロックという呼び方はニュー・ロックに変わり、ロックが70年代に入ってからどういった変遷をしたかは、あの時代ロックを聴いていた人はみな肌で感じていることだろう。ジョニー・ロットンが「ロックは死んだ」と発言してからだって40年は経っている。ロックは「ロック・ミュージック」と上品にジャンル分けされ、今やおじさんたちが若作りしてステージに立ったり、カラオケで熱唱するときに便利な音楽になり果てている。ニール・ヤングおじいちゃんが孤軍奮闘Rock’n’ Roll Never Can Dieと叫ぼうとも。ネタが古い?僕の中のロックもあの頃から止まっている。

 

 と思っていたのだが・・・。

 

 201946日 日本のロックバンド「SUCHMOS(サチモス)」の札幌公演を聴いた。全国7箇所8公演のアリーナ公演の3カ所目。会場に着いてみると8000人の会場がほぼ満席で埋まっている。2015年のデビューからここまで上り詰めたのだ。前作「THE KIDS」は2017年日本レコード大賞の最優秀アルバム賞を受賞、2018年にはサッカーワールドカップのテーマ曲を演奏し、アジアツアーを行い、紅白歌合戦にまで出演した。湘南出身のグッドセンスなバンドとしての地位を確立し、ファンを自認するユーミンはコンサートを観て「まるでマリブの海岸を彼らとドライブしているよう」と感想を述べた。新しいのにどこかノスタルジーを感ずる彼らの音楽はオールドロックファン世代にもどこかシンパシーを感じさせるものだ。

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 コンサートは新作『THE ANYMAL』からの曲を中心に構成された。10分を優に超えると思われる重厚長大な曲(IN THE ZOO)からコンサートは始まった。この曲ではグルーブ感あふれるプレイでぐいぐいバンドを引っ張るHSUのベースが控えめだ。ダニー・ハサウェイ・ライブにおけるウイリー・ウイークスがグレイトフル・デッドのフィル・レッシュに変身した、とは勝手な言い草だが今までとちょっと違った印象だ。多彩なギター・ワークのTAIKINGリズムキープに徹するドラムOK(最高!)、DJのKCEEはキーボード、ギターでも大活躍、特にノイジーだが魂の入ったギターはSUCHMOSに新たな武器が備わった印象だ。キーボードのTAIHEIはプレイヤーとしてすごい勢いで成長を遂げている。そしてヴォーカルYONCE。

 

 SUCHMOSのほかブルースバンドでも歌っているという彼のヴォーカルは音程がどうのこうの言わせない唯一無二の表現力を深めた。SUCHMOSの歌には英語が多くちりばめられているし、英語詞だけの曲もあるが日本語詞に混ざって何の違和感もない。逆にジャパニーズアクセントの英語がとても良い。英語は世界共通語だがそのアクセントにはお国訛りが出る。アメリカ音楽市場で成功するためにはアメリカ人のような英語発音で歌わなければならないと長い間言われてきたが、トランプじゃあるまいしそういった時代錯誤はもうやめにしてもらいたいものだ。事実英語で歌おうが日本語で歌おうがYONCEの歌は心にコミュニケートしてくる.

 

 

 サチモスの3rdアルバム「THE ANYMAL」にはロック/ブルースへの情熱を強く感じた。特に1960年代へのリスペクト。サージェント・ペパーズ~ホワイトアルバムの時期のビートルズ(ジョン・レノン)、サイケデリック、プログレ、表層的ではなくより潜航した部分でつながろうとしている。彼らの音楽からは、heroが突然いなくなったり、日ごと新しい何かが生まれたり、世界は音楽で変わると信じたり、そんな(ニュー)ロック黎明期の不安の伴ったわくわく感のようなものがよみがえる気さえする。今までのキャリアなど捨てても構わない、バンドの末永い安定感など求めちゃいない、今の俺たちはこう表現したいのだ。今にも壊れそうなくらい繊細だが、誰にこびることのない強靭な音楽世界を2019年のロックで構築した。アルバムには尋常じゃない展開の曲が並ぶが、とりわけIN THE ZOO INDIGO BLUES HIT ME THUNDER3曲は、ロックの歴史に残る名曲たちと同じたたずまいを持つ堂々とした曲だ。ライブではもっと激しく表現される。。

 

 どう見ても普通の男子たちが、どうしてここまでやってのけるのか、67歳をも魅了するのか、答えを求めに201998日(日)横浜スタジアムコンサートに出かけようと思っている。

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CASEY JONES ,YOU'D BETTER WATCH YOUR SPEED

昨年末からBAR GERSHWINでは、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の話題で持ちきりである。あいにく僕はクイーンと聞いても心躍らない音楽世代である。ギターが爆音を響かせヴォーカリストがわめき叫ぶ、いわゆるハード・ロックには僕もある時期魅了されたことがある。1971年グランド・ファンク・レイルロード後楽園球場コンサート、レッド・ツェッペリン初来日コンサートには、嬉々として出かけたものだが、ディープ・パープルがブイブイ言わせ始めた頃にはすでにハード・ロックに食傷気味だった。クイーンはさらにその次のグループだ。ブルースの発展形である初期のツェッペリンは今でも聴く。カッコよさエッチ臭さがストレートに伝わって気持ちよい。クイーンは音楽のごった煮感変態度がすごいといえばすごい。多感な時期の音楽との出会いはその人の一生の嗜好をも支配してしまう。そんな時期に残念ながら彼らに出会えなかった。映画はまだ観ていないが、いつか観てみたい。

Bohemian

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「エリック・クラプトン~12小節の人生~」は映画館で観てきた。途中何度か睡魔に襲われたが、考えさせられる映画だった。私生児として生まれ母親に見捨てられ、祖父母が親だと育つ。少年期にその嘘を知り心に傷を負ったことが酒と麻薬におぼれる壮絶なその後の彼の人生を支配する。一個人として幸せだったかはわからないが、音楽家としてはラッキーな人だった。1976年札幌コンサートを観ているが、酒でべろべろのステージにもかかわらず観客は拍手喝采。誰も音楽など聴いていなかったのだ。そんなライブが続けば演奏もいい加減になるのだろう。しかしファンはそんな人としての弱さを含め彼の音楽に接していたようにも思う。


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ミック・ジャガー制作,マーチン・スコセッシ演出、ミック・ジャガーの息子が役者デビュー、などで話題となったTVシリーズ「VINYLヴァイナル」を観た。ロックがビックビジネス化され、金と女と麻薬にまみれた1970年代初頭を架空のレコード会社を舞台に描かれたこのドラマは実在した音楽家たちも登場(スティーブン・スティルスのそっくりさんには笑った)するなどし、マーチン・スコセッシ演出の第一回こそ順調なスタートだったが、あの混とんとした時代を描き切れず、ドラマ自体が麻薬にやられたかのようなカオスに陥り、尻切れトンボの内容のままシリーズ1(10話)で打ち切りとなってしまった。音楽家も制作者もいっちゃってたあの時代のエネルギーは伝わってきた作品ではあった。。


AMAZON PRIME制作の「LONG STRANGE TRIP」を観た。マーチン・スコセッシ監修の全六回からなるグレイトフル・デッド の歴史を描いたドキュメンタリーだ。これは面白かった。1965年アメリカ/サンフランシスコにヒッピー文化花開くときサイケデリックバンドとしてデビューし1995年ジェリー・ガルシアの死去まで続いたグレイトフル・デッド。そのコンサートは毎年100回近く開かれ、すべての会場がSOLD OUT。アメリカ一稼ぐバンドだった。

このドキュメンタリーで改めてグレイトフル・デッドと向かい合い、彼らの音楽の素晴らしさを再確認し、ジェリー・ガルシアという人を思った。「自分の生き方を探してる人のために」ジェリー・ガルシア/チャールズ・ライク/ヤン・ウエンナー対談集、「緑色革命」チャールズ・ライク著などほこりをかぶった大昔の本を取り出し読んで(眺めて)もみた。新鮮だった。あの頃の方が冷ややかに読んでいたかもしれない。片岡義男の訳が分かりやすくてとてもいい。
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10年近く前になるが「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」という本がアメリカ/日本で出版され話題になったことがある。ヒッピーの生き方を基本にし続けたグレイトフル・デッドのマーケティングの在り方が、誕生し続けるアメリカIT企業の思想に影響を与えているというのだ。面白い視点だが、デッドビジネスが先端を行ったというより、世の中が一巡りしデッドの手法を上手に取り込んだというべきか。

映画「ウッドストック」でデッドの場面はカットされたが「まるで聖書の中の出来事のようだ」と語るガルシアが大写しされた。それがガルシアとの出会いだった。一聴して彼とわかるギターインプロビゼイションが素晴らしかったし「TEACH YOUR CHILDREN(CSN&Y)」のペダル・スティールも輝いていた。デッドにおけるガルシアの発言はヒッピー思想そのもので、教祖扱いされたが、彼はリーダーを拒み続けた、人を支配する気はさらさらなかった。一日アイスクリーム一個買う金があれば暮らしていけると語る彼にとってビッグビジネスとなったグレイトフル・デッドは重荷だった。彼はただひたすら演奏していたかったのだ。そんな責任からの逃避でオーバー・ドラッグとなり53歳で生涯を終え、グレトフル・デッドも解散した。

1970年代初めのころ、デッドのライブアルバムを手に入れたら、ジャケットにDEAD HEADS(デッドファンの組織)入会案内があった。友人の中尾君(オレンジ・カウンティ・ブラザーズ)と申し込みのハガキを送ってみたら、でたらめな住所名前で返信が届いた。これでよく着いたと中尾君と大笑いしたものだ。当初はいい加減な組織だったようだが、その後のデッドの活動を支えた。昔のDEAD HEADSの名簿が残っていたら、おかしな名前の日本人が一名登録されているはずだ。

僕が20代のころ初めて持った店は「CASEY JONES」といった。Casey_jones_2

殉死した実在のアメリカ伝説の蒸気機関士の名だが、グレイトフル・デッドはコカインでハイになった機関士としてカントリーロック調の歌にしたた。何度聴いても飽きが来ないあの時代の象徴的な曲だった。能天気な時代だったけど、よきにつけ悪しきにつけあの時代は僕の中に取り込まれてしまっている。

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温かな温かな東京ライブ

宮田あやこLIVE in TOKYOは2018年10月9日(火)に開かれた。前日東京入りし新宿ピットインスタジオでリハーサル。メンバーの顔がリハーサルの充実度を物語っているでしょう?
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会場は原宿にあるラドンナ原宿。原宿山手線駅から青山通りに向かいラフォーレ原宿、東急プラザが建つ最初の交差点一本目の小路を左に入ったあたりにある。僕とあやこは28年ぶりの原宿だ。街並みの美しさは変わらないが、昼下がり二時半あたりの時間帯だというのに人の多さにビックリ。

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ラドンナ原宿に到着。階段を下りた入り口付近のエントランスがいい雰囲気だ。会場も中世風の柱が印象的な重厚な趣で、テーブルごとにキャンドルがたかれ、ムード満点。
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ジョージ・ガーシュウィン作「'S WONDERFUL」がオープニングナンバー。

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二曲目は細井豊のストリングスがゴージャスな雰囲気を醸し出す「WHAT'S NEW」。この日はジョン・レノンの77回目の誕生日。コーラスが素敵だった「THIS BOY」。「ノルウェイの森」が圧巻だった。大山泰輝のピアノ、坂井紀雄のベース、細井豊のソプラノサックスが圧倒的な演奏を繰り広げ、あやこもファルセットを駆使したヴォーカルを披露。拍手が鳴りやまなかった。「GOLDEN SLUMBERS~GOOD NIGHT」のビートルズ・ララバイ・メドレーでで一部終了。

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センチメンタル・シティ・ロマンスの渋谷クアトロライブ(11月26日)にエールを送り「DESPERADO」

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初披露のニルソン/バッドフィンガーの「WITHOUT YOU」ピーター・アレン/キャロル・ベイヤー・セイガーの「DON'T CRY OUT LOUD」が喝さいを浴びる。


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来ていただいたお客様が素晴らしかった。温かな声援、鳴りやまぬ拍手、素晴らしいソロへの拍手歓声、素晴らしい時間を共有できあやこも歌手冥利につきるというもの。ありがとうございます。そんなに時を置かず東京ライブ実現したいです。札幌でもやらなきゃね。


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写真提供向井宜裕さん、A石川さん

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不思議な日

そよぐ風には さわやかな音
花達は咲き 野原を染めた   
ふしぎな 春の日


白い雲並み 踊りながらも
天使や鳥に すがたを変える    
ふしぎな 夏の日


果実は割れた 風の詩人は
星から星へすがたを変える  
ふしぎな 秋の日


眠りはいつも あたたかいもの 
雪はおどけて 街をかくした  
ふしぎな 冬の日

「不思議な日」 作詞松山猛 作曲加藤和彦 歌加藤和彦


加藤和彦氏が1972年に発表した「不思議な日」は宮田あやこがアマチュア時代好んで歌っていた曲で、歌詞を読むと四季の情景を詠んだ歌に聴こえるが、ネヴィル・シュート原作の小説と「手錠のままの脱獄」「招かれざる客」のスタンリー・クレイマー監督が映画化した映画「渚にて(ON THE BEACH)」にインスパイアされてできた歌なのだそうだ。


「渚にて」は世界核戦争が勃発し放射能が世界を滅亡に導き、最後に残されたオーストラリアの地を舞台にした、迫りくる放射能を自覚しつつ平常に暮らそうとする人々を描いた作品である。その普通の生活がより核の恐怖を伝える


2018年9月6日3時7分北海道厚真町あたり深さ37kmを震源とする地震が北海道を襲い、土砂崩れなどで多数の死者を出し北海道全域で地震発生とほぼ同時に電気の供給が止まった。札幌市を例にとれば地域によりバラバラだが、僕の住む住宅街は電気復旧まで40時間かかった。地震後ほぼ一週間たった。今回の停電を検証する専門家の意見から判断すると、北海道電力の初動における何らかのミスがあったようだ。やがて事実が明らかになるだろう。

立地環境に問題があり停止したままの泊原発は一時電源を失った。外部バッテリー電源が作動し、核冷却を維持できたそうだが、もし原発が稼働していたら外部電源で果たして間に合ったのか?対策は万全だったのか?経済効率優先で核の管理に甘さはなかったのか。人間はミスをする生き物である。そもそも核を扱う資格があるのだろうか。また国に責任がないと果たして言い切れるのか。何度愚かさを繰り返せば人間は気づくのだろう。


「試される大地」一時北海道キャンペーンのキャッチフレーズとして使われた。よく意味の分からぬコピーだったが、確かに北海道は国から試される大地であり続けている。拓銀が試しに潰され北海道経済はその後一向に立ち直れない。経産省から知事が送り込まれ、北海道は国の言いなりであり続けている。


地震のあったその日の昼間札幌の中心街を歩いてみた。外国人観光客が所在なさげにたむろし、普段と何も変わらない景色なのに明らかに街から精気が失われていた。美しい自然はそのままに人類が息絶えた「不思議な日」のイメージに札幌の街並みが重なった。誰がその空想を笑えるだろう。

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周回遅れランナーのつぶやき

世の中の変化のスピードが増している。と感ずること自体年寄りの仲間入りしたのかなとは思う。パワハラ、セクハラへの考え方も大きく変わってきた。変化についていけず失言や失礼な行為をやらかすオジ様、おじいちゃまは後を絶たない。

再放送「前略おふくろ様2部(1978)」の最終回を見ていたら、川谷拓三演ずる利夫が一方的に恋焦がれてきた拒絶する桃井かおり演ずる海ちゃんにビンタし黙らせておいて、強引な告白をする場面があった。このドラマの一つのクライマックスだった。しかし利夫のこの告白手段は今この時代に見たら(見ないだろうけど)、特に女性は「きもい」としか感じないのではないか。恋の気分はいつの時代にも変わらないのだろうが、今の時代その表現を誤ると大変なことになってしまう。

映画「卒業(1968)」は10代の自分の何かを目ざめさせてくれた大切な映画であるが、今の時代の若者が見たらどう感ずるのだろう。ストーカー映画と言われても、僕には返す言葉がない。そう断定されてもしょうがないストーリーなのだ。


昨年放映された倉本聰久々のTVドラマ「やすらぎの郷」でも、老人施設に勤める若い女性が帰宅途中暴走族に暴行され、老人たちが復讐を果たすという場面があって驚かされた。女性への凌辱が、単なるドラマの素材にしか使われなかったのだ。「忘れるのよ、忘れなさい。そうやって女になっていくのよ。」と登場人物に慰めの言葉を言わせている。いつの時代のドラマなのだろうか。


古本屋で見つけた倉本聰と並ぶ脚本家の巨星山田太一の1984年のエッセー集を読んでいたら、「男に乱暴された娘が、以後セックスに拒否反応を示すというような話を聞くと、なんだかひ弱な印象を受け・・」という記述があった。同じ1934年(昭和9年)生まれの両氏、昭和一桁生まれの男の認識はその程度のものなのだ。その後男たちの認識は変わったのだろうか。


セクハラ、パワハラはその被害を受けた側がどう感ずるかでであって、加害者、傍観者にその是非を判断する資格はない。「その程度のこと」と思う気持ちが時代に取り残されている証左だ。今後様々な問題に直面する機会が増えるだろうけど、女性が勇気を持った時代は確実にいい方向へ向いていると思う。ただ恋愛はますます厄介なものになっていくだろう。面倒、と思う妙齢者が増えているというのもわからないでもない。


スターバックスにおける黒人差別事件はアメリカで様々な波紋を呼んでいるらしいが、この点に関しては日本人の自分には微妙なところがわからない。日本人は飲食店に入店してオーダーしないなどということはほぼ皆無だからだ。ノーオーダーで居座った客に、さて警察に連絡するかはわからないが、そこに差別意識がなければスターバックススタッフの気持ちは良くわかる。全店を半日休業にして社員教育をしたというスターバックス首脳からはこれ以上マイナスイメージが拡散しないよう、早く嵐が過ぎ去るようにという意図が透けて見える。これは差別とは別の問題だと従業員を擁護する方法だってあっただろう。謝って臭いものにふたのほうが、よっぽど問題がある、と考える自分は周回遅れのランナーなのかもしれないが。

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SKY IS THE LIMIT 21世紀の二宮光

2018年も早四月を迎えた。春は新たな出発の時期でもあるが、別れの季節でもある。

札幌市狸小路3丁目周辺の再開発が進んでいる。再開発といっても札幌駅周辺のように行政がかかわった周到なものではなく、一私企業にゆだねられているようだ。老舗菓子舗「千秋庵」のビルが解体中だし、現在ドン・キホーテが入店するサン・デパート・ビルも今月中に営業を終える。隣接する松竹遊楽館劇場がかつてあった建物のテナントもとうに撤収している。マンションが併設された高層商業ビルになるようだ。


1960年代初めにできたサン・デパートは思い出深い。デパートという名を冠したテナントビルで、様々な店舗が入店していた。どこの楽器店だったのだろう、レコード売り場があった。友人の長尾達君がピーター、ポール&マリーかキングストン・トリオのLPレコードを買いたいというので休日付き合った。当時中学生がアルバムを買うことは命がけだった。試聴室にこもること数時間、結局買ったのか買わなかったのか記憶にないが、PPMを聴くと今でもゲップが出る。

地下にあったカレー店も高校生時からお世話になった。うまかった。一時メインテナントだった電気店YESも重宝した。大型店の道内進出であっという間になくなってしまった。

出発といえば、大谷翔平だろう。素晴らしいピッチングデビューを飾った。100マイルの直球(フォーシーム)、スライダー、カーブ、スプリット・フィンガー・ファースト・ボール(フォーク)を投げ分ける。バッティングも規格外でこの先どこまでの可能性を秘めているのか。
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昭和30年代、少年マガジンに連載されていた「ちかいの魔球(福本和也原作ちばてつや作画)」全9巻は擦り切れるまで読んだ。少年時の宝物だった。主人公はサウスポー投手二宮光。ちばてつやの絵は主人公をきれいに描いた。鼻がツンとしたさわやかな横顔は大谷翔平をどこか思わせる。二宮光は3種類の魔球を発明した。打者の手元でふわっと浮き上がる第一の魔球、球が五つに見える第二の魔球、そして第三は消える魔球。この第3の魔球で肩を壊した二宮光はサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で完全試合を達成し、そっと球界を去る。

註 記憶は変質します。サンフランシスコ・ジャイアンツではなくデトロイト・タイガーズ。
  完全試合ではなく完封。ブラッシンゲーム(のちの阪神ブレイザー監督)をきりきり舞いさせたシーンはよく覚えています。肩は第一の魔球の時にすでに痛めていたそうです。

大谷翔平の存在が漫画的とよく言われる。うなづく部分がある。現実的にあり得ないと思われていることに大リーグで挑戦している彼は僕にとって現代の二宮光である。SKY IS THE LIMIT(可能性は無限)、球場でボードを掲げているファンがいた。無事これ名馬、故障なく活躍し僕らを驚かし続けてほしい。


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「洋楽グラフィティー」見るのが辛いです

50年~60年ほど前、札幌円山動物園では4月の開園日に(今は年中開いているそう)少年少女たちにヒヨコのプレゼントがあった。一人に何十羽と振舞われた。家に持ち帰り育てようとするのだけど、だいたい数日で全羽死んでしまう。それでもあまりの可愛さに性懲りもなく毎年もらいに行ったものだ。ところがある年8歳違いの妹がもらってきたヒヨコが一羽死なずに育ってしまった。まさか育つと思っていなかった親はしょうがなく物置の一部を鳥小屋に改造した。


ヒヨコのうちこそ可愛かったこの鶏は成長するにつれ獰猛になり、誰かまわず戦闘態勢に入るようになった。怖くて誰も近寄れなかったのだけど、妹だけには穏やかにまるで別鳥?のようになつくのだ。呼ばれたら必死に妹の姿を探し、見つけたら後をちょんちょんと付いて歩く。不思議でならなかった。確かに妹は家で飼っていた犬(ちん)に求愛行動されたり、動物好きではあったけれど・・後になってわかったのだが、この鶏の妹に対する行動は「刷り込み」といって、生まれて初めて目にしたものを親とみなす鶏の習性なのだそうだ。


NHK BS3で何度も再放送されている「洋楽グラフィティー」の1960年代のある回を見ていたら、妻に「この人たちどこが良かったの?」と質問されてしまい困惑した。妻とは数歳の違いがあり、10代だったあの頃の数年は結構大きなタイムラグがある。音楽としてちゃんと聴いていなかったものをあの映像で初めて見せられては、この感想もいたし方ないと思った。カメラワークは稚拙で、バンドのメンバーたちもカメラの前で悪ふざけしているだけのものが多く、演出&映像のセンスのカケラもないものばかりなのだ。幻滅の我が少年期のヒーローたち。ビーチ・ボーイズ、タートルズ、ヤードバーズなどは特にひどい。自らの音楽を冒涜している映像だ。しかし、あの時代に自分がこれらの映像を見ていたらどう感じていたのだろう。YOU TUBEなどない時代、動くミュージシャンの姿を見ただけで興奮、「かっこいい」と刷り込まれていただろう。


少年少女期の夢は大切にしたいけど、いつか人は現実を知り、夢は終わる。「刷り込み」度合いの強かった者ほどその時期は遅れるが、たとえ社会から取り残されても(大人になれなくとも)そのほうが幸せ、という考え方だってある。そういった人へのシンパシーから芸術、スポーツ、あらゆる表現活動は成り立っているのではないか。少なくともロック・ミュージックはそうだ。しかし、その音楽はエヴァー・グリーンだが、映像は残酷だ。当時の現実を突きつけてくる。


音楽のヒーローはただのやんちゃ坊主だった、では困るのだ。そんなお猿さんたちを思春期にヒーローとして刷り込まれてしまった自分は幸せなのか、否か。この歳になり腕組みため息の日々であります。


30代に聴いて感動した歌ですが。


夢のひとつひとつを
消してゆくのはつらいけど
若すぎて何だかわからなかったことが
リアルに感じてしまうこの頃さ

「SOMEDAY」 佐野元春

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映画「ジョアンナ」1960年代のおとぎ話

朝起きてカーテンを開けると、あたりは白一色の世界。昨晩から降り続いた雪が今年も札幌に冬を運んできたようだ。雪はなぜか昔の記憶を一緒に連れてくる。こんな日は、遠い思い出に浸るのも悪くない。

ということで手に入れていたDVD「ジョアンナ(1968マイケル・サーン監督)」を朝から鑑賞。48年ぶりの再見。窓から雪を眺めつつの映画鑑賞はなかなかオツなものだ。
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1968年に作られたこの英国映画はロンドンを舞台にした当時最高にヒップな映画だった。賢いとは言えないけど、純粋で人を信じやすいジョアンナの奔放な生き方を綴った「伝統的な社会や制度を否定し、個人の魂の解放を訴えた」カウンター・カルチャーが席巻していた時代の要求に沿った、今この年齢で見ると、ちょっと辛いストーリー展開なのだけど、殺人を犯し牢屋に入る恋人の子を産むため故郷に帰るジョアンナを映画制作スタッフ、登場人物たちがダンスとともに温かく見送るカーテンコールシーンの素晴らしさは48年たった今見ても色あせていない。1960年代のおとぎ話を作り上げた制作陣の映画/映像センスは素晴らしい。

あの時代、映画は教師だった。自分の女性観も映画によって育まれた部分が大きい。スコット・ウォーカー歌う挿入歌も素晴らしい。ウォーカー・ブラザーズに在籍しポール・マッカトニーと日本では人気を二分していた彼には「ジョアンナ」というヒット曲があるが、それは映画の曲ではない。
Weightgegevieve


WHEN JOANNA LOVED ME

When Joanna loved me
Every town was Paris
Every day was Sunday
Every month was May

When Joanna loved me
Every sound was music
Music made of laughter
Laughter that was bright and gay

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虫明亜呂無氏 知の巨人

虫明亜呂無氏を知ったのはいつの頃だったか、今では思い出せないが、記録映画「札幌オリンピック(1972年篠田正浩監督)」の脚本に虫明氏が参加すると知って興奮した覚えがあるので、その時点で虫明氏の文章に感化されていたことは間違いない。

虫明亜呂無、一見奇妙な名前は本名だそうである。1923年に生まれ,1960,70,80年代、主にスポーツ論、芸術論、文化論、女性論、小説で名を成した。知の巨人である。彼の著作の多くは「映画評論」「キネマ旬報」「話の特集」「スポーツニッポン」「競馬新聞」など専門誌、雑誌、スポーツ新聞に書かれた。氏の著作は数冊を残し死後絶版となっていたが、現在は玉木正之氏が主に競馬論、スポーツ論を中心に編纂した「肉体への憎しみ」「野を駆ける光」「時さえ忘れて」3冊の本と、高崎俊夫氏が主に映画、音楽、小説、舞台、女優などを論じた散文を編纂した「女の足指と電話機 回想の女たち」「仮面の女と愛の輪廻」の2冊で氏の著述の主たるものを読むことができる。小説では短編集「パスキンの女た」](高崎俊夫編)が入手できる。


洞察力と表現力に圧倒される氏のスポーツ論にあって、時代に翻弄された天才陸上アスリート人見絹枝さんを書いた「大理石の碑」の美しさとはかなさは筆舌に尽くしがたい。虫明氏は悲劇的かつ激動の24年の生涯を生きた人見さんの墓を訪ね、父親に家に招き入れられ彼女の写真、遺品を見る。残されたブレザーコートに息づく人見絹枝を心で抱く。氏はこの文章で「スポーツは所詮エロチシズムの変形にすぎない」と断ずる。虫明氏の著作に時には朧げに、時には濃密に漂う性の気配は氏のロマンチシズムの極致であるが、氏の文筆の主題をここまで言い切らせたのは、人見絹枝という人物の存在の大きさだ。


虫明氏の名文を紹介していては夜が明けてしまう。是非一読をおすすめする。玉木正之氏は「ともすれば”人間ドラマ”という安直な置換えが主流を占めるこの国のスポーツジャーナリズム世界にあって、まさに強烈な光彩を放っている。」高崎俊夫氏は「虫明亜呂無のエッセイは読む者の裡にさまざまな想像力を誘発する。その<古さを感じさせない、清心で瑞々しい、華麗な散文>を存分に味わっていただきたい。」とあとがきで書く。


最後に、僕の個人的な話を。10代の頃の僕に強い印象を与えた虫明氏の文章があった。50年近くの月日が経過し、いったいこの文章は実在したのかと自問したくなるほど記憶は曖昧だが、虫明氏がフランスに逗留中どこかのリゾート地でまだ無名だったフェイ・ダナウエイに遭遇する話のことだ。そこで二人は親密になり様々なことを語り合ったという。それに酷似したエピソードがそののち1960年代を象徴する女優にまでなったフェイの主演映画「ルーという女(1972)」に東洋人(日本人と思われる)と遭遇する場面として思わせぶりに描かれていたのだ。この映画はファッションモデルを描いた内容で、フェイの実話ではないけれど後にフェイと結婚する脚本/監督ジェリー・シャッツバーグ(作品にスケアクロウなどがある)の作品なので、フェイの実際の話がストーリーとして採用された可能性はある。虫明氏の単行本未収録の膨大な原稿が眠っているという。どなたかこの因果関係の是非を証明してはくれないだろうか(僕の老人性記憶書き換えでないことを願う)。


頭髪薄く、さしたる美形でもない虫明氏、鈍感な一凡人男性には推し量れない、知性の裏付けある性的魅力をそのうちに秘めていたのだろう。
 
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虫明亜呂無1983年60歳で脳血栓に倒れ、文筆に復帰することなく、長い闘病生活の後、1991年68歳で死去。

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サチモス(SUCHMOS)TAIHEI君との対話

BAR GERSHWINの営業は宮田あやこライブを終え、午後11時を回ると、どこかホッとしたリラックスした雰囲気が店内、お客様にあふれてくる。

そんな時間帯にひとりの青年が現れた。「初めてです。いいですか?」折り目正しいその物腰はセンスあふれる体裁とはちょとアンバランスであったけど、カウンターに一人座った。しばらく雑談していると、地元の青年ではないことがわかった。「ピアノがあるんですね。僕も音楽で生活しています。」。謙虚にプロの音楽家であることを明かした。

彼は現在全国ツアー中のバンドのキーボード奏者で明日はZEPP SAPPOROでのコンサートがあるという。「僕らのバンドはサチモス、というんです。メンバーがバンド名で悩んでいたとき、楽屋でルイ・アームストロング(サッチモ)の音楽が流れてきたんです。サッチモの響きがいいので使わせてもらったんです。そのときは意識していなかったのだけど、偉大なブラック・ミュージックのパイオニアだと分かって・・単なる偶然ではなかったのかもしれません。」。彼のアーティスト名はTAIHEI(さん)。


「ピアノがあるっていいですね。」GERSHWINのピアノを気にする。「どうぞ演奏してもいいですよ」と声をかけると「いいんですか?」と言いつつも臆することなくピアノに向かう。ジャズのスタンダード曲を二曲ほど演奏する。「たまにジャズの場に行って演奏させてもらうんです。ボロクソに言われて、落ち込むんですけど、前より良かったと言ってもらいたくて足を運ぶんです。」

あやこのアルバムにあった「DESPERADO」が好きな曲らしく、「歌ってもらえますか」と初見の楽譜で演奏する。
「エイトビートは難しいのよ」とあやこ。「俺八分音符は自信あります」と軽く火花が散ってセッションはスタート。彼自身プレイに納得いかなかったらしいが、負けず嫌いの彼のことだから次回はあっと驚くプレイを聴かせてくれる予感がする。

GERSHWINのピアノを「この子、艶かしく、なんともいわれぬ音していますね。」とまるで女性を愛おしむかのように扱う。カウンターに座っていた好青年は、鍵盤と向かい合うとそこはかとない色気とオーラを漂わせる。


幼い頃ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」をピアノで演奏したかったが楽譜が見つからなく自分で一生懸命コピーした経験も語ってくれた。

「ラプソディ・イン・ブルー」はクラシック音楽に分類されるけれど、その音楽世界に濃密に漂うのは黒人音楽の持つ艶めかしさである。ガーシュウィンは白人作曲家で初めて黒人音楽の影響をクラシック作品に表した人である。20世紀の音楽を後世の人が振り返ったとき、おそらく黒人音楽隆盛の時代として捉えられるだろう。ジャズもロックもみなその子供である。

翌日早速サチモスのCDを買い求めた。

サチモスはブラック・ミュージックに心酔していて、「ルーツ・ミュージックに敬意のないミュージシャンには腹が立ちますよ。」とJポップの音楽家とは一線を画すとTAIHEI君は主張する。彼らの音楽を聴くとジャミノクワイはじめ様々な音楽の影響下にあることは明らかだけど、彼らはそれを隠さないし、表現することに夢中なことがよく分かる。ダンサブルでありファッショナブルであるけど、彼らの音楽は新しいのにどこか懐かしく、哀愁を感ずる。松任谷由美はじめベテランミュージシャンが彼らの音楽に注目する理由がよくわかる。TAIHEI君が知らなかったリトル・フィートを聴かせると(彼のピアノにビル・ペインを感じたので)大喜びしてくれた。打てば響くとはこういうこと。真綿が水を吸い込むがごとく、音楽を吸収している。

より深く掘り下げることだ。清濁併せ持つ井戸掘り作業の後見えてくる唯一無二の世界、その時TAIHEI君が言っていた、多くのミュージシャンに影響を与え、世界に進出できる素地が出来上がる。

いい出会いだった。刺激をもらった。最近の音楽を聴いてこなかったことをちょっぴり反省。良質の音楽の継承はしっかりとなされていた。サチモスの今後の活動に幸あらんことを。


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「パンとあこがれ」と宇津宮雅代

前回のブログ「やすらぎの郷と八千草薫さん」を書くための下調べをしていたら、今年1月脚本家山田太一さんが脳出血で倒れたという記事を見つけた。命には別状なく、インタビューに応えられるほどには回復したのだけど、脚本はもう書かないと断筆宣言されているそうだ。


僕にとって倉本聰さん同様毎作を楽しみにしてきた脚本家だっただけに、彼の作品を二度と見られないならこんな寂しいことはない。


八千草薫が不倫主婦を演じた「岸辺のアルバム。」田中裕子、森昌子、古手川祐子らが出演した「想い出づくり。」中井貴一らの「ふぞろいの林檎たち」など連続ドラマのみならず、単発のドラマにおいても展開が尋常でない問題作ばかりを書いた。


そんな名作群の中にあって僕にとって最もインパクトある山田太一作品は、彼が30代のころに書き下ろした「パンとあこがれ」だ。TBS系列で1969年3月~9月に昼の帯ドラマで放送されたもの。受験生にも関わらず、勉強に集中せず日々怠惰に過ごしていた時期、このドラマに巡りあった。


「パンとあこがれ」は新宿中村屋を夫と共に創業した相馬黒光の半生を描いたものなのだが、昼食時主婦向けの平和な時間枠に放映されるドラマとしては型破りだった。山田太一が「なんの束縛もなかった」と語っているように、明治初頭生まれの相馬黒光の奔放な生き方をこれでもかとばかりに書き連ねた。


主人公の吉本綾(役名)は10代だった自分にとって衝撃的すぎるほどの女性だった。彼女の存在から情けない自分を十二分に意識せざるを得なかった。綾を演じたのは文学座の新人女優だった21歳の宇津宮雅代。「ドラマの進行とともにめきめききれいになっていった(山田太一談)とあるように、ドラマでは妙齢の女性が「女」に成長していくまさにその瞬間が捉えられていた。黒光と宇津宮雅代の虜になった僕は地元新聞紙の読者テレビ評欄に「女の息の音が聞こえてくるようなドラマである」とわかったようなことを書き掲載されたり、生まれて初めてファンレターを書いた(投函はしなかったように思う)。

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自分が将来娘を持つことがあったら「綾」と名付けようと決めた。それから十数年後娘を持ったが「綾」という名にはならなかった。なぜなら「綾子」という名の妻を持ってしまっていたからだ(^^)。


宇津宮雅代のことを調べていたら、高崎俊夫という方のブログにいきあたった。フリーの書籍編集者であり映画/ジャズのライターでもある。僕の所有している「60年代アメリカ映画(芸術新聞社)」に「60年代映画とジャズをめぐる私的断章」という素晴らしい一文を寄せている。この方が編集者として1960~80年代、偉大なスポーツ/芸術の書き手にして小説家でもある虫明亜呂無のエッセイ集二冊を編纂し2009年に上梓していていることがわかった。


「女の足指と電話機・・回想の女優たち」「仮面の女と愛の輪廻」の二冊である。虫明亜呂無は宇津宮雅代の両親と学友でデビュー時から目にかけていて、彼女に関していくつもの文章を残しているそうだ。「女の足指と・・」とのタイトルは彼女の舞台のあるシーンから名付けられている。熱烈な宇津宮雅代ファンを自認する高崎俊夫さんが編者だからこそ実現したタイトルであるのかもしれない。

「彼女から、女の心理だとか、女の感受性、女の美意識、女の恋愛感情、などつぶさに教えてもらった。」「彼女と生肉を食し、チバス・リーガルを飲み交わし、ジターヌ・ブルーを吸った。」虫明氏が宇津宮雅代を語った文章である。女性の心理、生理を熟知している氏にここまで書かせる、宇津宮雅代はいったいどういった女性なのだろう。


「パンとあこがれ」から幾星霜。僕の中で別々にあったパズルのピースが連なり始めた。虫明亜呂無さんのことなどいずれまた・・。

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