「洋楽グラフィティー」見るのが辛いです

50年~60年ほど前、札幌円山動物園では4月の開園日に(今は年中開いているそう)少年少女たちにヒヨコのプレゼントがあった。一人に何十羽と振舞われた。家に持ち帰り育てようとするのだけど、だいたい数日で全羽死んでしまう。それでもあまりの可愛さに性懲りもなく毎年もらいに行ったものだ。ところがある年8歳違いの妹がもらってきたヒヨコが一羽死なずに育ってしまった。まさか育つと思っていなかった親はしょうがなく物置の一部を鳥小屋に改造した。


ヒヨコのうちこそ可愛かったこの鶏は成長するにつれ獰猛になり、誰かまわず戦闘態勢に入るようになった。怖くて誰も近寄れなかったのだけど、妹だけには穏やかにまるで別鳥?のようになつくのだ。呼ばれたら必死に妹の姿を探し、見つけたら後をちょんちょんと付いて歩く。不思議でならなかった。確かに妹は家で飼っていた犬(ちん)に求愛行動されたり、動物好きではあったけれど・・後になってわかったのだが、この鶏の妹に対する行動は「刷り込み」といって、生まれて初めて目にしたものを親とみなす鶏の習性なのだそうだ。


NHK BS3で何度も再放送されている「洋楽グラフィティー」の1960年代のある回を見ていたら、妻に「この人たちどこが良かったの?」と質問されてしまい困惑した。妻とは数歳の違いがあり、10代だったあの頃の数年は結構大きなタイムラグがある。音楽としてちゃんと聴いていなかったものをあの映像で初めて見せられては、この感想もいたし方ないと思った。カメラワークは稚拙で、バンドのメンバーたちもカメラの前で悪ふざけしているだけのものが多く、演出&映像のセンスのカケラもないものばかりなのだ。幻滅の我が少年期のヒーローたち。ビーチ・ボーイズ、タートルズ、ヤードバーズなどは特にひどい。自らの音楽を冒涜している映像だ。しかし、あの時代に自分がこれらの映像を見ていたらどう感じていたのだろう。YOU TUBEなどない時代、動くミュージシャンの姿を見ただけで興奮、「かっこいい」と刷り込まれていただろう。


少年少女期の夢は大切にしたいけど、いつか人は現実を知り、夢は終わる。「刷り込み」度合いの強かった者ほどその時期は遅れるが、たとえ社会から取り残されても(大人になれなくとも)そのほうが幸せ、という考え方だってある。そういった人へのシンパシーから芸術、スポーツ、あらゆる表現活動は成り立っているのではないか。少なくともロック・ミュージックはそうだ。しかし、その音楽はエヴァー・グリーンだが、映像は残酷だ。当時の現実を突きつけてくる。


音楽のヒーローはただのやんちゃ坊主だった、では困るのだ。そんなお猿さんたちを思春期にヒーローとして刷り込まれてしまった自分は幸せなのか、否か。この歳になり腕組みため息の日々であります。


30代に聴いて感動した歌ですが。


夢のひとつひとつを
消してゆくのはつらいけど
若すぎて何だかわからなかったことが
リアルに感じてしまうこの頃さ

「SOMEDAY」 佐野元春

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映画「ジョアンナ」1960年代のおとぎ話

朝起きてカーテンを開けると、あたりは白一色の世界。昨晩から降り続いた雪が今年も札幌に冬を運んできたようだ。雪はなぜか昔の記憶を一緒に連れてくる。こんな日は、遠い思い出に浸るのも悪くない。

ということで手に入れていたDVD「ジョアンナ(1968マイケル・サーン監督)」を朝から鑑賞。48年ぶりの再見。窓から雪を眺めつつの映画鑑賞はなかなかオツなものだ。
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1968年に作られたこの英国映画はロンドンを舞台にした当時最高にヒップな映画だった。賢いとは言えないけど、純粋で人を信じやすいジョアンナの奔放な生き方を綴った「伝統的な社会や制度を否定し、個人の魂の解放を訴えた」カウンター・カルチャーが席巻していた時代の要求に沿った、今この年齢で見ると、ちょっと辛いストーリー展開なのだけど、殺人を犯し牢屋に入る恋人の子を産むため故郷に帰るジョアンナを映画制作スタッフ、登場人物たちがダンスとともに温かく見送るカーテンコールシーンの素晴らしさは48年たった今見ても色あせていない。1960年代のおとぎ話を作り上げた制作陣の映画/映像センスは素晴らしい。

あの時代、映画は教師だった。自分の女性観も映画によって育まれた部分が大きい。スコット・ウォーカー歌う挿入歌も素晴らしい。ウォーカー・ブラザーズに在籍しポール・マッカトニーと日本では人気を二分していた彼には「ジョアンナ」というヒット曲があるが、それは映画の曲ではない。
Weightgegevieve


WHEN JOANNA LOVED ME

When Joanna loved me
Every town was Paris
Every day was Sunday
Every month was May

When Joanna loved me
Every sound was music
Music made of laughter
Laughter that was bright and gay

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虫明亜呂無氏 知の巨人

虫明亜呂無氏を知ったのはいつの頃だったか、今では思い出せないが、記録映画「札幌オリンピック(1972年篠田正浩監督)」の脚本に虫明氏が参加すると知って興奮した覚えがあるので、その時点で虫明氏の文章に感化されていたことは間違いない。

虫明亜呂無、一見奇妙な名前は本名だそうである。1923年に生まれ,1960,70,80年代、主にスポーツ論、芸術論、文化論、女性論、小説で名を成した。知の巨人である。彼の著作の多くは「映画評論」「キネマ旬報」「話の特集」「スポーツニッポン」「競馬新聞」など専門誌、雑誌、スポーツ新聞に書かれた。氏の著作は数冊を残し死後絶版となっていたが、現在は玉木正之氏が主に競馬論、スポーツ論を中心に編纂した「肉体への憎しみ」「野を駆ける光」「時さえ忘れて」3冊の本と、高崎俊夫氏が主に映画、音楽、小説、舞台、女優などを論じた散文を編纂した「女の足指と電話機 回想の女たち」「仮面の女と愛の輪廻」の2冊で氏の著述の主たるものを読むことができる。小説では短編集「パスキンの女た」](高崎俊夫編)が入手できる。


洞察力と表現力に圧倒される氏のスポーツ論にあって、時代に翻弄された天才陸上アスリート人見絹枝さんを書いた「大理石の碑」の美しさとはかなさは筆舌に尽くしがたい。虫明氏は悲劇的かつ激動の24年の生涯を生きた人見さんの墓を訪ね、父親に家に招き入れられ彼女の写真、遺品を見る。残されたブレザーコートに息づく人見絹枝を心で抱く。氏はこの文章で「スポーツは所詮エロチシズムの変形にすぎない」と断ずる。虫明氏の著作に時には朧げに、時には濃密に漂う性の気配は氏のロマンチシズムの極致であるが、氏の文筆の主題をここまで言い切らせたのは、人見絹枝という人物の存在の大きさだ。


虫明氏の名文を紹介していては夜が明けてしまう。是非一読をおすすめする。玉木正之氏は「ともすれば”人間ドラマ”という安直な置換えが主流を占めるこの国のスポーツジャーナリズム世界にあって、まさに強烈な光彩を放っている。」高崎俊夫氏は「虫明亜呂無のエッセイは読む者の裡にさまざまな想像力を誘発する。その<古さを感じさせない、清心で瑞々しい、華麗な散文>を存分に味わっていただきたい。」とあとがきで書く。


最後に、僕の個人的な話を。10代の頃の僕に強い印象を与えた虫明氏の文章があった。50年近くの月日が経過し、いったいこの文章は実在したのかと自問したくなるほど記憶は曖昧だが、虫明氏がフランスに逗留中どこかのリゾート地でまだ無名だったフェイ・ダナウエイに遭遇する話のことだ。そこで二人は親密になり様々なことを語り合ったという。それに酷似したエピソードがそののち1960年代を象徴する女優にまでなったフェイの主演映画「ルーという女(1972)」に東洋人(日本人と思われる)と遭遇する場面として思わせぶりに描かれていたのだ。この映画はファッションモデルを描いた内容で、フェイの実話ではないけれど後にフェイと結婚する脚本/監督ジェリー・シャッツバーグ(作品にスケアクロウなどがある)の作品なので、フェイの実際の話がストーリーとして採用された可能性はある。虫明氏の単行本未収録の膨大な原稿が眠っているという。どなたかこの因果関係の是非を証明してはくれないだろうか(僕の老人性記憶書き換えでないことを願う)。


頭髪薄く、さしたる美形でもない虫明氏、鈍感な一凡人男性には推し量れない、知性の裏付けある性的魅力をそのうちに秘めていたのだろう。
 
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虫明亜呂無1983年60歳で脳血栓に倒れ、文筆に復帰することなく、長い闘病生活の後、1991年68歳で死去。

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サチモス(SUCHMOS)TAIHEI君との対話

BAR GERSHWINの営業は宮田あやこライブを終え、午後11時を回ると、どこかホッとしたリラックスした雰囲気が店内、お客様にあふれてくる。

そんな時間帯にひとりの青年が現れた。「初めてです。いいですか?」折り目正しいその物腰はセンスあふれる体裁とはちょとアンバランスであったけど、カウンターに一人座った。しばらく雑談していると、地元の青年ではないことがわかった。「ピアノがあるんですね。僕も音楽で生活しています。」。謙虚にプロの音楽家であることを明かした。

彼は現在全国ツアー中のバンドのキーボード奏者で明日はZEPP SAPPOROでのコンサートがあるという。「僕らのバンドはサチモス、というんです。メンバーがバンド名で悩んでいたとき、楽屋の壁に張ってあった、ルイ・アームストロングのポスターにサッチモとあって響きがいいから使わしてもらったんです。そのときは意識していなかったのだけど、偉大なブラック・ミュージックのパイオニアだと分かって・・単なる偶然ではなかったのかもしれません。」。彼のアーティスト名はTAIHEI(さん)。


「ピアノがあるっていいですね。」GERSHWINのピアノを気にする。「どうぞ演奏してもいいですよ」と声をかけると「いいんですか?」と言いつつも臆することなくピアノに向かう。ジャズのスタンダード曲を二曲ほど演奏する。「たまにジャズの場に行って演奏させてもらうんです。ボロクソに言われて、落ち込むんですけど、前より良かったと言ってもらいたくて足を運ぶんです。」

あやこのアルバムにあった「DESPERADO」が好きな曲らしく、「歌ってもらえますか」と初見の楽譜で演奏する。
「エイトビートは難しいのよ」とあやこ。「俺八分音符は自信あります」と軽く火花が散ってセッションはスタート。彼自身プレイに納得いかなかったらしいが、負けず嫌いの彼のことだから次回はあっと驚くプレイを聴かせてくれる予感がする。

GERSHWINのピアノを「この子、艶かしく、なんともいわれぬ音していますね。」とまるで女性を愛おしむかのように扱う。カウンターに座っていた好青年は、鍵盤と向かい合うとそこはかとない色気とオーラを漂わせる。


幼い頃ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」をピアノで演奏したかったが楽譜が見つからなく自分で一生懸命コピーした経験も語ってくれた。

「ラプソディ・イン・ブルー」はクラシック音楽に分類されるけれど、その音楽世界に濃密に漂うのは黒人音楽の持つ艶めかしさである。ガーシュウィンは白人作曲家で初めて黒人音楽の影響をクラシック作品に表した人である。20世紀の音楽を後世の人が振り返ったとき、おそらく黒人音楽隆盛の時代として捉えられるだろう。ジャズもロックもみなその子供である。

翌日早速サチモスのCDを買い求めた。

サチモスはブラック・ミュージックに心酔していて、「ルーツ・ミュージックに敬意のないミュージシャンには腹が立ちますよ。」とJポップの音楽家とは一線を画すとTAIHEI君は主張する。彼らの音楽を聴くとジャミノクワイはじめ様々な音楽の影響下にあることは明らかだけど、彼らはそれを隠さないし、表現することに夢中なことがよく分かる。ダンサブルでありファッショナブルであるけど、彼らの音楽は新しいのにどこか懐かしく、哀愁を感ずる。松任谷由美はじめベテランミュージシャンが彼らの音楽に注目する理由がよくわかる。TAIHEI君が知らなかったリトル・フィートを聴かせると(彼のピアノにビル・ペインを感じたので)大喜びしてくれた。打てば響くとはこういうこと。真綿が水を吸い込むがごとく、音楽を吸収している。

より深く掘り下げることだ。清濁併せ持つ井戸掘り作業の後見えてくる唯一無二の世界、その時TAIHEI君が言っていた、多くのミュージシャンに影響を与え、世界に進出できる素地が出来上がる。

いい出会いだった。刺激をもらった。最近の音楽を聴いてこなかったことをちょっぴり反省。良質の音楽の継承はしっかりとなされていた。サチモスの今後の活動に幸あらんことを。


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「パンとあこがれ」と宇津宮雅代

前回のブログ「やすらぎの郷と八千草薫さん」を書くための下調べをしていたら、今年1月脚本家山田太一さんが脳出血で倒れたという記事を見つけた。命には別状なく、インタビューに応えられるほどには回復したのだけど、脚本はもう書かないと断筆宣言されているそうだ。


僕にとって倉本聰さん同様毎作を楽しみにしてきた脚本家だっただけに、彼の作品を二度と見られないならこんな寂しいことはない。


八千草薫が不倫主婦を演じた「岸辺のアルバム。」田中裕子、森昌子、古手川祐子らが出演した「想い出づくり。」中井貴一らの「ふぞろいの林檎たち」など連続ドラマのみならず、単発のドラマにおいても展開が尋常でない問題作ばかりを書いた。


そんな名作群の中にあって僕にとって最もインパクトある山田太一作品は、彼が30代のころに書き下ろした「パンとあこがれ」だ。TBS系列で1969年3月~9月に昼の帯ドラマで放送されたもの。受験生にも関わらず、勉強に集中せず日々怠惰に過ごしていた時期、このドラマに巡りあった。


「パンとあこがれ」は新宿中村屋を夫と共に創業した相馬黒光の半生を描いたものなのだが、昼食時主婦向けの平和な時間枠に放映されるドラマとしては型破りだった。山田太一が「なんの束縛もなかった」と語っているように、明治初頭生まれの相馬黒光の奔放な生き方をこれでもかとばかりに書き連ねた。


主人公の吉本綾(役名)は10代だった自分にとって衝撃的すぎるほどの女性だった。彼女の存在から情けない自分を十二分に意識せざるを得なかった。綾を演じたのは文学座の新人女優だった21歳の宇津宮雅代。「ドラマの進行とともにめきめききれいになっていった(山田太一談)とあるように、ドラマでは妙齢の女性が「女」に成長していくまさにその瞬間が捉えられていた。黒光と宇津宮雅代の虜になった僕は地元新聞紙の読者テレビ評欄に「女の息の音が聞こえてくるようなドラマである」とわかったようなことを書き掲載されたり、生まれて初めてファンレターを書いた(投函はしなかったように思う)。

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自分が将来娘を持つことがあったら「綾」と名付けようと決めた。それから十数年後娘を持ったが「綾」という名にはならなかった。なぜなら「綾子」という名の妻を持ってしまっていたからだ(^^)。


宇津宮雅代のことを調べていたら、高崎俊夫という方のブログにいきあたった。フリーの書籍編集者であり映画/ジャズのライターでもある。僕の所有している「60年代アメリカ映画(芸術新聞社)」に「60年代映画とジャズをめぐる私的断章」という素晴らしい一文を寄せている。この方が編集者として1960~80年代、偉大なスポーツ/芸術の書き手にして小説家でもある虫明亜呂無のエッセイ集二冊を編纂し2009年に上梓していていることがわかった。


「女の足指と電話機・・回想の女優たち」「仮面の女と愛の輪廻」の二冊である。虫明亜呂無は宇津宮雅代の両親と学友でデビュー時から目にかけていて、彼女に関していくつもの文章を残しているそうだ。「女の足指と・・」とのタイトルは彼女の舞台のあるシーンから名付けられている。熱烈な宇津宮雅代ファンを自認する高崎俊夫さんが編者だからこそ実現したタイトルであるのかもしれない。

「彼女から、女の心理だとか、女の感受性、女の美意識、女の恋愛感情、などつぶさに教えてもらった。」「彼女と生肉を食し、チバス・リーガルを飲み交わし、ジターヌ・ブルーを吸った。」虫明氏が宇津宮雅代を語った文章である。女性の心理、生理を熟知している氏にここまで書かせる、宇津宮雅代はいったいどういった女性なのだろう。


「パンとあこがれ」から幾星霜。僕の中で別々にあったパズルのピースが連なり始めた。虫明亜呂無さんのことなどいずれまた・・。

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やすらぎの郷と八千草薫さん

テレビ朝日系列で毎週月~金昼12時30分から放送されている「やすらぎの郷」を楽しみに見ている。脚本家倉本聰が書き下ろした、テレビの発展に貢献した人のみが入居できる老人施設を舞台にしたドラマだ。


往年の俳優たちが老人役で顔を揃える。八千草薫、石坂浩二、浅丘ルリ子、加賀まりこ、野際陽子、五月みどり、有馬稲子、山本圭、藤竜也などなど。


若者向けトレンディ・ドラマがはびこる中、真昼間から老人群像ドラマ放映に踏み切ったテレビ朝日と売り込んだ倉本聰に拍手を送りたい。


倉本聰が脚本を書いたドラマには楽しませてもらってきた。初めて彼の名を印象づけられたのは1974~75年にかけて放映された、加東大介主演で遺作ともなった「六羽のかもめ」。ヴィデオのない時代、同時刻に萩原健一、水谷豊出演の「傷だらけの天使」が放映されていたが「六羽のかもめ」に僕はチャンネルを合わせた。続く「前略おふくろ様」も圧倒的面白さで、それ以来倉本聰ドラマのとりこになり現在に至る。


倉本が八千草薫主演のドラマを企画していると何年か前どこかの記事で見た。大女優であるにも関わらず庶民的な役でテレビにもなんの偏見なく出演し続けた八千草薫は倉本ドラマの重要な役者でもあったのだ。倉本はそんな八千草がどれほどに美しく魅力ある女優であり、かつ素晴らしい女性であったかを作品として留めておきたいのだと僕は理解し、その実現を心待ちにした。


それがこの「やすらぎの郷」だったのだ。今現在ドラマはあと一ヶ月を残すのみ。八千草演ずる「姫」こと九条摂子が不治の病で余命一ヶ月という事実が明らかになったところまで話は展開して来た。多くの名俳優たちが演じたこの群像ドラマであるが、倉本が一番書きたかったのは八千草薫が演じる往年の名女優九条摂子であるのは明らかだ。またほかの出演者たちもその気持ちを汲み八千草に特別な敬意を持ち演技している。


僕個人も昭和40年代札幌遊楽館地下劇場で日伊合作「蝶々夫人(1955)」の予告編を見て主演の八千草薫のその清楚な美しさに打たれて以来、密かにファンを続けてきた。余談だが「蝶々夫人」はローマのチネチッタスタジオで撮影されているのだけど、前年同スタジオでオードリー・ヘップバーン主演「ローマの休日」が作られている。二歳違いのふたりが同じような歩みをしたのは符号なのか・・?


1970年代はじめ進学で上京した僕は、新宿のアドホックビル(だったと思う)のどこかの場所で友人と待ち合わせをした。待ち合わせ場所が見つからなかった僕はあるブティックの店員に場所を尋ねようと声をかけた。振り向いたその店員とおぼしき女性は「わたくし、店員ではありませんのよ。」とニッコリ微笑んだ。


その女性はまぎれもない八千草薫だった。当時40歳ほどだった彼女だが、僕が店員と間違えるくらいだから服装はカジュアルだったし、年齢よりずっと若く見えた。夢か現実か、東京に住み始めてほどない田舎者にとってはあんまりの洗礼だった。固まり真っ白になった僕はなんの言葉を発することもできずに、その場を立ち去った。
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さして誇れる思い出話のない僕にとって、八千草薫さんとの遭遇は最大の自慢話である。


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A SONG FOR YOU レオン・ラッセル逝く

大通公園のホワイト・イルミネイションが点灯され、札幌は一年で最もロマンチックな季節を迎える。そんな大通公園8丁目に面する大通公園ホテルがひっそり閉館した。雪だるまがトレードマークの小さなビジネスホテル。1970年代初めから同じ佇まいでそこにあった。


訃報が相次いでいる。レナード・コーエンが亡くなり、リリィが逝った。レナード・コーエン本人の歌は苦手だったが、他人が歌うと名曲だとわかった。ジェニファー・ウォーンズのカバー・アルバムは今でも愛聴盤だ。名曲「ハレルヤ」も多くの歌手に歌われている。リリィとは一度だけ酒を飲んだことがある(30年以上前の大昔の話)。とても明るい人で飲みっぷりも良かった。腕を組んではしゃぎながらすすきのを闊歩した。楽しく飲んでいたのに途中から彼女は姿を消した。探したら隣のゲイ・バーですっかり人気者になっていた。映画「リックヴァンウィンクルの花嫁(2016)」の演技は素晴らしかった。ご冥福をお祈りします。

「レッキング・クルー」と呼ばれた1960~70年代半ばまで活躍したスタジオ・ミュージシャンのドキュメンタリー映画が今年日本公開され、特典映像だけで3時間以上あるDVDも発売された。レッキングクルー関連の情報は数年前に出版された「レッキングクルーのいい仕事」という本など近年活発なので、映画自体からの新たな発見は少なかったけど、様々なミュージシャンへのインタビューで構成される特典映像は見応え充分だ。

レオン・ラッセルへのインタビューが抜群に面白い。人を食った彼の話をどこまで信じていいのかわからないけれど、14歳でジェリー・リー・ルイスのバックバンドに採用され音楽家としてのキャリアをスタートさせ、2年間ツアーに参加していたという。ゲイリー・ルイスとプレイ・ボーイズの仕事もレオンのものだが彼は全然気に入っていなかったようだ。ちなみにゲイリー・ルイスの父親はジェリー・ルイスという喜劇役者、ジェリー・リー・ルイスとは別人なのでお間違えなきように。

幼少時の病気で手と足に欠陥を抱え、音楽家として一人前になるまで10年長くかかったというが、これも謙遜だ。ピアノ、ギター、管楽器・・何でもござれの天才ミュージシャンだった。ザ・ベンチャーズのキーボードも彼のものと言われている。僕がポップ・ミュージックに目覚めた頃、すでに彼は若くして第一線のスタジオワークをこなしていたわけだ。

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今でも細々と3~4曲の印税が入ってくるが(スーパー・スター、ア・ソング・フォー・ユー、マスカレード・・・)とても借金を返せない額なのでツアーを続けていると語る。細々どころかそれらの曲の印税だけでも莫大なものと思うが、一体いくら浪費したのだろう。すべてにおいて規格外で1970年代を語るとき、外せない人だった。だった、と書くのが悲しい。


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宮田あやこ CD「ADIOS LIVE in TOKYO」完成

36年前の1980年7月21日、僕は当時やっていたcafé&bar CASEY JONESのお客さんたちとおんぼろバスを貸切り、総勢20数名で厚田町あたりの海へ出かけた。その年は寒い夏でその日も薄日の差す20度をやっと超すくらいの気候だった。しかし若者ぞろいの海水浴は寒さなんかへいちゃらで、潜ってウニを採ったり、ジンギスカンをしたり、ビール缶でパーカッション合戦をしたり、青春を(僕はちょっと年を取っていたけどまだ20代だった)謳歌した。宮田あやこはそこにはいなかった。なぜならその日は彼女のデビュー・アルバム「LADY MOCKIN BIRD(エピック・ソニー)」の発売日で東京にいたからだ。そんな大切な日に札幌で海水浴に浮かれていて僕はどこか後ろめたかったのか、前日まで一日二箱は吸っていたハイライトをその日禁煙した。その日以来僕はタバコを吸っていない。

自分の人生を季節に例えれば1980年はまさに真夏だった。燦々と太陽光が降り注ぎ、怖いもの知らずで、時間は使い切れないくらいあった。失うものなど何もなかったし、怖くなかった。しかし、終わりのない夏がないように、いつか季節は移ろう。その後多くの責任を負う人生が待ち受けていた。

あやこのニューアルバム「ADIOS LIVE in TOKYO」の発売日が7月21日となった。別にその日を意識したわけではない、CD製作をしている台湾の工場が台風の影響で閉鎖され、CD到着が7月20日になると業者から連絡が来たからだ。でもその偶然にちょっぴり因縁めいたものを感じ嬉しかった

宮田あやこ東京ライブは5月29日、30日の二夜行われた。休憩を入れ3時間近くのライブにもかかわらずお客さんは退屈せず皆満足そうにニコニコとして会場をあとにした。長年ライブを企画していると、ライブ終了後のみなさんのお顔でおおよそライブの評価がわかる。記録用に録音された音源を何日かして聴いてみた。驚いた。何曲かはすごいエネルギーを伴っていた。この日のため集まった細井豊、マイク・ダン、山下泰司の熱い演奏と、観客との温かな交流が、あやこに普段以上の力を与えたようだ。この音源を残すのは僕の役目、と思い立つのにそんなに時間はかからなかった。30日の演奏をそのまま収録することにした。しかし一曲一回さらっただけのリハーサル、前日一日ライブを終えていたとはいえ、ミスが何箇所もあるし、さすがにちょっと逡巡した。ライブCDを制作するなど暴挙といえるかもしれない。

当日会場に観客として来ていたあやこデビュー時のプロデュース&エンジニアリングの松本裕氏から自宅に電話があった。ライブの出来の素晴らしさを伝えたかった、といった内容の電話だった。その場で閃きライブ音源CD化に向けてマスタリング/編集をお願いできないか申し出た。その場で快諾していただけ、ライブCD実現に向け舵を切った。36年ぶりの再会、そして共同作業。フルサークルという言葉がある。人生一周りしてまた新たな地平が開けるといった意味だが、そんな人生の摂理を感じた瞬間だった。

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リンダ・ロンシュタットがパーキンソン病により歌手引退宣言をしていたこと、キャロル・キングが「ジェイムス・テイラーとのコンサートでもう思い残すことはない」、と実質引退をしていること。さらにグレン・フライの突然の死去。前を歩いていると思っていたミュージシャンが次々といなくなってしまう。東京ライブの2部はそんな偉大な音楽家に敬意を表したアメリカ西海岸トリビュート的な構成にした。そしてライブCDはこの2部をそっくり収録している(あやこオリジナル「ALASKA」はカット)。「名曲を集めただけでしょ」、言いたい人には言わせておこう。どれだけこれらの曲が大切なものだったか分かる人にはわかる。

「ADIOS」のページをGERSHWIN HP上に作った。興味のある方はこちらもどうぞご覧下さい。http://bar-gershwin.com/adios/そこに素敵な一文を寄せてくれたのは現在札幌に住む中学校1年生で知り合って以来の友人、音楽ジャーナリスト山本智志君。宮田あやこの36年前のデビューアルバムのライナーノーツは山本君の奥様で音楽評論家水木まりさんにより書かれた。温かだったが辛辣でもあった。エピック担当者は素晴らしい一文と掲載した。そこで彼女はあやこの歌はまだ稚拙だが、歌い続けることが大切と書いた。歌い続けた36年の結果が今回の「ADIOS」である。

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SHINING RIGHT DOWN ON ME 宮田あやこ3年ぶりの東京ライブ

2016年5月28日、29日、30日、31日の4日間、東京は自然のエアコンディショナーが働いたかのような気温で、宮田あやこを迎えてくれた。前回も5月の下旬にライブは行われたのでちょうど3年が経った。その間僕は母を、あやこは父を見送った。今更ながらだけれど月日の移ろいの速さを思う。もはや♫Time is on my sideとローリング・ストーンズが歌った時代ではない。時間は待ってなどくれない、ましてや味方などではない。

稲系のアレルギーにより札幌であやこは苦しんでいた。毎年この時期に見舞われる症状だがアレルギー薬は声域を狭めるので飲まない。しかし東京に着くとピタリと症状は収まった。会場の新宿ミノトール2は新宿5丁目にある。36年前あやこがエピック・ソニーからデビューしたとき、デビューお披露目ライブを行いその後毎月ライブをした「ルイード」がすぐ目の前にあった。ビルは今でもあるが違うテナントになっている。また当日は花園神社のお祭りで縁日があり新宿3丁目界隈は熱気にあふれている。

新宿ピットインに併設されているリハーサルスタジオでライブ初日当日午後1時から初リハを行う。メンバーは札幌から同行した山下泰司(ピアノ)にベテラン音楽家、細井豊(キーボード、その他)マイク・ダン(ベース)。3人が共演する部分を一回だけさらう。事前に音源、譜面を送っていたとは言え、皆さんの負担は相当のものであったように思う。しかし一曲目のリハを終えたあと山下泰司が「至福の時です。」とつぶやいた一言がライブの成功を予見していた。バック・コーラスが大変と考えていたのだけど、マイクは伝説のスーパーバンド「パラシュート」でヴォーカルを勤めていたし、細井君はイーグルスやオーリンズと海を隔てて張り合っていたバンド「センチメンタル・シティ・ロマンス」のメンバーだ。そのハーモニーワークは日本のバンドでは群を抜いている。その二人に山下泰司が加わり二声、三声で歌われる。あらかじめ山下の書いた譜面に細井、マイクのアイデアが加えられ、あっという間に素晴らしいハーモニーが完成。その他の曲もアレンジャー山下泰司の手際いい進行で滞りなく終了。

会場のミノトール2は収容数60数名の程よいスペース。どの席に座っても音響が良い設計になっていて感心した。PAミキサーが常駐し、照明も兼ねる。ピアノはヤマハ外枠にスタインイウェイが入っているのだそうだ。硬質だが確かにスタインウェイの音だ。札幌のジャズピアニスト故福居良さんはここのピアノが好きでこの会場よくを利用していたそうだ。昨年の11月が最後のライブだった。

29日(日)30日(月)と二日間の公演。休憩を挟んでの2部公演。メンバーが全員揃う1部後半、2部は構成が同じだが、1部半ばまでの山下泰司とのデュオ部分は曲をガラリと入れ替えた。初日の模様を簡単にレポートしよう。

山下泰司がコール・ポーター作「NIGHT&DAY」を軽やかに華麗に奏でる中宮田あやこニコニコと登場。歌い終え「ようこそ札幌へ」と挨拶。会場がどっと沸く。今回のライブは
札幌GERSHWINの雰囲気をそのまま東京にお届けしようといった企画だ。お客様はかつて札幌勤務していた方、出張でいらっしゃっている方、札幌生まれで東京で働く方、全国の宮田あやこファンと様々だ。初日は日曜日ということもあり、ご夫婦でいらっしゃった方も多い。

2曲目はお久しぶりねと「WHAT’S NEW」。今回のライブは事前にリクエストを募っていた。3曲目はリクエストに応えて「LULLABY OF BIRDLAND」と続く。

4曲目は会場にいるピアニスト大山泰輝がステージに呼ばれ、あやことジョージ・ガーシュウィン作「SOMEONE TO WATCH OVER ME」。あやこのスタンダードアルバム「BEWITCHED」でかつて共演した曲。お互い見つめ合い呼吸を合わせ、ドラマチックなバラードをヴァースから見事に披露する。大山のピアノは音楽の粒が降り注いでくるかのよう。美しい。あやこも完璧に歌い上げる。今年放送されたNHK朝ドラ「あさが来た」で聴こえてきたピアノは大山によるもの。現在ソロ・アルバムを制作中だ。

5曲目はビートルズの「ノルウェイの森」。6曲目の前にちょっと長い語りが入った。あやこが小学生の時札幌で母親がわりに生活を見てくれた叔母が先日重篤な病で病院に搬送され、意識がない。叔母は東京生まれ東京育ち終戦後米軍用のデパートで働き英語を喋るハイカラな人で、幼いあやこにドリスデイの歌などを教えてくれていた。病院に駆けつけそんな懐かしい歌を意識のない叔母の耳元で歌ったら、叔母はニッコリ微笑み曲に合わせるように顔を揺すったのだ。叔母の脳裏には若かった頃の素敵な思い出が蘇ったのかもしれない。そばにいた叔父や従妹は涙した。そんな話をはさみ叔母との思い出の曲ドリス・デイの「QUE SERA SERA」「ケセラセラ、なるようになるわ。先のことなどわからない」の部分を日本語で歌う。細井豊の間奏のアコーディオンが素晴らしく拍手が沸く。叔母はこのライブの5日後に息を引き取った。

「心が折れそうになった時にこそ笑顔を、あなたの顔を喜びで満たして」と語り、これもリクエストに応えてチャップリンの「SMILE」。マイク・ダンのベースが加わり、細井が間奏で感動的なハーモニカを奏でる。

8曲目はビートルズの「LOVE ME DO」。細井のハーモニカが、マイクのベースがご機嫌に鳴り響き山下のピアノがブルースを思いっきり表現する。あやこのヴォーカルも全開。

一部最後の曲はロック/ポップ史上燦然と輝くフィル・スペクター制作、「BE MY BABY」。なぜあやこがこの曲を歌うか。それは山下泰司のアレンジ&ピアノがあまりに素晴らしいからだ。バイヨンリズムのバスドラ鳴り響くイントロの呪縛から多くのカバーは逃れられないのだけど、山下の編曲は軽いボッサリズムを基調とする。それに呼応しあやこもCODAで軽やかでメロディアスな極上のスキャットを披露する。この曲の作者エリー・グリンウイッチ自らが歌うワルツ仕立ての「BE MY BABY」と山下泰司のこのアレンジは僕にとって二大カヴァーだ。
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撮影 向井宣裕

2部はレオン・ラッセル曲「THIS MASQUERADE」からスタート。間奏で細井が印象的なハーモニカを吹くのだが、翌日はこの部分フルートを吹いた。この二日間のライブで細井が使った楽器はアコーディオン、ハーモニカ、フルート、オルガン、エレピ、ストリングシンセ、ピアノ、パーカッション、そしてコーラス。リハではサックスも試していた。驚くべきマルチ・プレイヤーである。マイク・ダンはニュージーランド出身、オーストラリアでプロ活動を始めた。最初は学校でチェロを学びベースに転向、オーストラリアではデビュー前のビージーズ兄弟と演奏活動を行っていたそうだ。日本に来て40年を超える。そんなメンバー紹介をたっぷりと行う。

長いメンバー紹介を終え2曲目は「SUPER STAR」。レオン・ラッセル/ボニー・ブラムレット作のこの曲はカーペンターズのヒット曲でお馴染みだが、あやこはジョー・コッカーのツアーで歌われたリタ・クーリッジヴァージョンに触発されてこの曲を歌い始めた。歌詞もグルーピーを歌ったものに戻す。マイク・ダンのあやこの歌に寄り添う物悲しい表現が素晴らしい。マイクの歌声には惚れ惚れさせられるものがある。いつかアーロン・ネビルとリンダ・ロンシュタットのようなデュエットが実現できたらと思う。

3曲目はボズ・スキャッグスの「SLOW DANCER」山下泰司の書いたマイク・細井・山下による3声のコーラスが素晴らしい。曲はより感動的なものとなった。

4曲目に歌われたのはリンダ・ロンシュタットの「BLUE BAYOU」。リンダの十八番でさすがにあやこも手を出せなかったのだが、一昨年札幌でリンダトリビュートを行った際この曲を外すわけには行かず、あやこは初めて歌った。最近になってようやく曲を自分のものと出来たようだ。哀愁と温もりが同居するあやこの歌唱はリンダとはまた違った世界を作りあげた。テックスメックス風の細井の奏でるアコーディンが素晴らしく、この日この曲が良かったと多くの方が感想を述べてくれた。

5曲目は今年亡くなったイーグルスのグレン・フライに捧げて「DESPERADO」。同時代を生きた細井がアコースティックピアノを弾く。この曲はあの時代のバイブルのような曲だ。グレンへの鎮魂歌かのように歌われる。リハで一回合わせただけなのにあやこと細井の息はぴったりだ。

6曲目はあやこがデビューした1980年第二弾シングルとして発売された「ALASKA」。北海道出身のあやこのイメージに合わせ松本隆が書いた歌詞は、失恋で冬に北へと向かった女性が流氷の町で自分をリセットするといったストーリーなのだが、あやこは「失恋女性が北へ向かう、まるで演歌の世界だけどさすが松本隆さんですねえ、強い女性を描いてくれました。」と会場を笑わせ、併せてこの日会場にいらしていた松本隆さんの実弟であやこを発掘してくれたプロデューサーの松本裕氏を紹介する。36年ぶりの再会だった。ジャクソン・ブラウンを意識して作られたこの曲、山下、細井の力強い演奏が素晴らしかった。

7曲目はデビュー当時あやこのステージの定番曲だったリンダ・ロンシュタットの「YOU’RE NO GOOD」から始まってキャロル・キングの「IT’S TOO LATE」へと繋ぐ。長いメンバーのアドリブソロが続き10分にも及ぶ演奏になった。メンバーの力量の凄さを改めて思った。バンドのバランス重視を心がける山下のピアノがその役割から解き放され躍動する。パーカッシブな素晴らしいプレーだった。山下は今回のライブの陰の立役者である。彼の存在なくして今回のライブは成り立たなかった。このライブを機に彼の才能が一層花開くことを願う。

最後の曲はキャロル・キングの「WAY OVER YONDER」。鎮魂歌として3・11直後からこの曲をあやこは歌い始め、3年前の東京でもこの曲を歌った。しかしまた熊本で大惨事が起きてしまった。飢えや寒さのない希望の場所、黄金の太陽が自分に降り注ぐ場所がきっとあるはず、と歌われるこの曲は当日会場に居た熊本からご参加の江藤夫妻にそして悩みを抱える人に向け歌われた。江藤氏は家を立て直さなければならないほどの被害を受けたにも関わらず、この日のライブを楽しみに復旧に当たられたのだそうだ。スピリチュアルで荘厳な山下の前奏から始まり、あやこの歌が次第に熱を帯び細井のオルガンが間奏で炸裂する。最後を飾るにふさわしい歌、演奏だった。

アンコールは「ADIOS」。1989年にジミー・ウエッブにより書かれた曲だが、最初に録音したのがリンダ・ロンシュタット。17歳で彼と手を取り合ってカリフォルニアへと向かい住んだ女性が、夢をもう一歩で実現させるところで彼と別れカリフォルニアに別れを告げ北へ向かうといった内容の歌だが、今回のライブ構想はこの曲との出会いから始まった。かつて憧れの地であり多くの夢を育んでくれたサザン・カリフォルニア及び音楽家たちへの感謝をあやこは熱唱する。

ライブ最後の曲は参加してくださった皆さんへの感謝と繋がりを祝福して「YOU’VE GOT A FRIEND」。会場のみなさんもコーラスに参加して下さり、コンサートを幸せに終える。両日とも観客の皆さんが素晴らしかったとマイク、細井両氏が何度も語ってくれた。素晴らしいソロへの拍手、絶妙な歓声も随所で聞けた。出演者のみならずライブ企画者にとっても至福の時だった。1部55分,2部1時間25分。コンサートを終えマイク・細井両氏は目を赤くしてあやこに握手を求めた。

ブログにアップするのが僕の役目なのだけど、今回は正直活字にするのがしんどい。もっとライブの余韻に浸っていたい。僕はプロの物書きではないので活字では音楽の魅力の一端しか伝えられない。音楽評論家の小尾隆さんが素敵な文章にしてくださった。さすがプロの仕事だ。http://obinland.exblog.jp
当日参加の方たちと心にそっととっておきたいライブだったけれど、何らかの形で当日参加できなかった方たちにもお届けできる方法を今考えている。


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宮田あやこ LIVE in TOKYO 2016のお知らせ

全国各地で桜が開花し、ようやく北海道にも桜前線が上陸したようだ。札幌は4月28日が開花予想、GW中に満開になる予定とのこと。そんな希望にあふれたシーズンのはずなのに熊本/大分県を中心とする九州地方で大きな地震災害が起きた。いつ地震がやむのか、地震学者がお手上げの今回の地震、被災された方たちが一日も早く日常の生活に戻られますように。心よりお祈りいたします。

宮田あやこ東京ライブが5月29日(日)5月30日(月)両日行われる。3年ぶりの東京ライブだ。前回は観客の方の温かな声援もあり、とてもいい演奏会になった。しかし33年ぶりの東京ライブということもあり、ちょっと力みがあったライブだったようにも思う。札幌~東京を意識せず札幌のライブをそっくり東京に持っていけないか、今回はそんな普段着の演奏会にできたらと考えている。

といいつつ高い入場+飲食代金をいただくライブだ。満足して頂けなければわざわざ東京まで出かけていって歌う意味はない。普段のGERSHWINでのライブを基本に、それなりのサプライズも用意する。今回ピアニストは二十年近く一緒にやっている山下泰司さんが札幌から同行するのだがゲストには頭を悩ませた。ライブ当日3時間ほどしかリハーサルができない。技術面はもちろんのこと、あやこといい人間関係を築いている音楽家がその条件だ。まずボトムを支えてもらうベーシスト。咄嗟に思い浮かんだのがマイク・ダンさん。あやこのデビュー当時バックバンドの一員として活動してもらっていた。当時スタジオワークの音楽家として売れっ子だった。あやこバンドで一緒だった今剛、井上鑑などとパラシュートというバンドを作り、玄人?ロック/フュージョンファンを唸らせていた。当時CMで歌われる英語の歌はマイク・ダンだらけだったこともある。全米進出を図ったパラシュートの4thアルバムは全曲マイクのヴォーカルだった。

電話をしてみた。「いいよ~楽しみだね」二つ返事で快諾していただけた。ギャラのことなんか全然きいてこない。今年亡くなったギタリスト松原正樹さんが1981年松山千春の仕事でマイクと札幌にやってきたとき、「どうしてマイクと組むの?」とよく聞かれるのだけど「マイクはずっと僕や今剛の先生だったんだ」と僕に語ってくれた。共演してみるとその凄さがよくわかる。

昨年GERSHWINを訪れてくれた細井豊氏と久々に何曲かプレーして、育ってきた、影響を受けてきた音楽が一緒なのだと改めて思った。説明しなくとも欲しい音が彼のピアノからは自然と生み出されてくる。今回はライブの2部を1970年代アメリカ西海岸トリビュート的な内容にしようと考えているので、同じ時代の空気を浴びた彼の参加は心強いものだ。結成40年を超えるセンチメンタル・シティ・ロマンスを続け(昨年はアメリカコンサートを実現させたそうだ)竹内まりや、伊勢正三、加藤登紀子など彼をファーストコールピアニストとして指名する歌手は多い。マルチプレイヤーの細井さん今回はキーボード,アコーディオン、ハーモニカなどであやこの歌に彩りを添えてもらう。

今回のライブ1部は普段のGERSHWINライブそのままの雰囲気選曲でお送りする。アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュウィン~フィル・スペクター~バート・バカラック~ビートルズBAR GERSHWIN サブコピーにあるようにPop Music Of The 20th Centuryのめくるめく世界をお届けする。

2部はあやこが多大の影響を受けたアメリカ西海岸の音楽家たちへ敬意あふれるプログラムとなる。レオン・ラッセル~リタ・クーリッジ~キャロル・キング~イーグルス(グレン・フライ)~リンダ・ロンシュタットなどの曲で構成される。アンドリュー・ゴールド、ケニー・エドワーズ、ドン・グロルニック、カルロス・ベガ、ダン・フォーゲルバーグ・・・
今はこの世にいない素晴らしい音楽の記憶を残してくれた数々の音楽家への想いが溢れるライブ。こんなライブをやれるのは宮田あやこをおいてほかにはいない(ほかにいるとすれば、山下達郎抜きの竹内まりやかな)。

イーグルス張りのコーラスワークが魅力のセンチメンタル・シティ・ロマンス細井豊、ヴォーカリストとしても一流のマイク・ダン、二人に山下泰司を加えたバックコーラスの妙も合わせてお楽しみください。アットホームな温かなライブにしたいと考えている。そんなリビング・ルームライブにどうぞご参加ください。

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宮田あやこ LIVE in TOKYO 2days
2016年5月29日(日)30日(月)
午後6時開場 7時開演
新宿ミノトール2 東京都新宿区新宿5-11-4龍生堂ビルB1
¥6,000(ワンドリンク&ディッシュ付き)

出演
宮田あやこ(ヴォーカル)
山下泰司(ピアノ)
マイク・ダン(ベース)パラシュート
細井豊(各種楽器)センチメンタル・シティ・ロマンス

お問い合わせ&ご予約(電話かメール)
BAR GERSHWIN 011-221-2605(午後6時~)
          fantasista_miyata@nifty.com
新宿ミノトール2 03-334-2655(午後3時~午後10時)

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ADIOS  グレン・フライ逝く

昭和30年代風に言うと、我が家にテレビが来た。50インチあるというのに配達員一人が台車で軽々と運んでくる。脚の取り付け、設定は自分でやる。モニターだけのあっさりしたもので、さほど大きさを感じない。装飾品でもあった昔がちょっぴり懐かしい。

最近のテレビはインターネットもやれ、NETFLIXという動画サービスもついている。一ヶ月間は無料ということなので、様々なテレビドラマ、ドキュメンタリー、映画を観たが、映画「ゴッド・ファーザー」1とパート2をまたもや観てしまった。1970年代に作られたこのマフィア映画の傑作は、ある映画のメグ・ライアンのセリフを借りると「男って皆、ゴッド・ファーザーが好きね」ということになる。壮絶な縄張り争いもさる事ながら、本来の自分を殺して、家族、マフィア組織、を守ろうという男の悲哀が多くの男どもの共感を呼ぶのだろう。

このところミュージシャンの訃報が続いている。昨日はモーリス・ホワイト(EW&F)、昨年来からはアラン・トゥーサン、ナタリー・コール、デビッド・ボウイ、ポール・カントナーが逝ってしまった。人の生き死にはその人なりの運命で、合掌して見送るしかないが、イーグルスのグレン・フライの訃報には、特別な感慨があり、様々な思いが去来した。

グレンの死因は関節リウマチによる合併症とあった。この病気は自己免疫疾患で、簡単に言ってしまうと自分の免疫が自らの身体を攻撃し関節を壊すというものだ。症状が増すと激痛を伴うものとなり強力な痛み止め薬が日常必要になる。女性がかかる病気とも言われ男性の罹患率は20%と少ない。なぜ発症するか、DV、極度のストレスなど心因性の作用を多くの人が指摘しているが、原因はまだ解明されていない。この病気で死に至ることはないが、薬による重篤な副作用の可能性を持つ。この10年ほどで症状を劇的に食い止める新薬が開発されたが免疫力が極度に落ちるのだ。潰瘍性大腸炎、肺炎などグレンの直接の死因は新薬摂取の副作用が引き金になったのではと推測される。なぜ僕がこの病気を知っているか?それは宮田あやこが36年間戦っている病気だからだ。
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グレンの訃報を聞いたある人は、「悪党は長生きするはずなのに」と感想を述べた。確かに、イーグルス双頭のドン・ヘンリーがどこか弱さを持ち多くのファンを持つのに比べ、グレンは自信にあふれ、正体を隠した鋭い眼光を持ち、メンバーを恫喝、脱退に追いやりイーグルスを思い通りに操った男としてのイメージが強い。しかし、世界最高のバンドと言われるまでになったイーグルスをファンのイメージ損なうことなく、過去に栄光があったと言われることなく歩み続けるバンドとして存続させるため、いかほど人としてのエネルギーを必要としたことか。常人には計り知れない。この病気と15年間戦い力尽きたという事実を知り、彼の隠し通した苦悩を知った気がした。彼は命を賭してイーグルスを守り続けたのだ。グレンの代わりのメンバーを探してイーグルス再活動を言う人もいるけど、グレン抜きのイーグルスなど断じてありえない。ドン・ヘンリーがそんなことをするわけがない。

「We Are The EAGLES From Los Angels」グレンはコンサートの冒頭いつもそうアナウンスメントした。しかしメンバーに一人としてロサンジェルス出身者はいない。グレンはデトロイト/ミシガン、ドン・ヘンリーはテキサスの信号もないような田舎町の出身だ。ロサンジェルスは彼らの憧れの街だった。サザン・カリフォルニアには見果てぬ夢があった。そんな時代の記憶を実現させたイーグルスは連綿たるウエストコースト音楽の系譜に重要な一ページを加えた.。California Dreamin'の終焉を歌った「ホテル・カリフォルニア」の大ヒットは彼らの永い活動歴のほんの一コマに過ぎない。
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最高のロックンロールを演奏し、可愛い女の子とねんごろになり、一旗揚げること。男子と生まれてそれ以上のことがあるのか。グレン、君は充分やり遂げた。


ADIOS  

17歳で家を出た
あなたと共に
カリフォルニアの浜辺

マルガリータを一晩中飲み明かした
あの古びた酒場
カリフォルニアの浜辺を離れて

私を不誠実だったと思わないで
そんな気難しい顔をしないでね
アディオス、さよなら

我々は成し遂げられなかったけど
でももう少しまで近づけた
アディオス、さよなら

北へ行こう
丘が冬の緑の場所
あなたから去らなければならない
カリフォルニアの浜辺から

行くところは
水は澄み、空気は清らか
カリフォルニアの浜辺よりも

終わらぬ夏の我々の夢
壮大すぎていたかもしれない
アディオス、さよなら

あの丘の真っ赤な夕陽が懐かしい
でもあなたがいないのが一番寂しい
アディオス、さよなら

ADIOS
WORDS&MUSIC BY JIMMY WEBB
SUNG BY LINDA RONSTADT

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WHEN I'M SIXTY-FOUR 今からずっと先のおはなし

僕の住む札幌は11月の降雪としては62年ぶりという大雪に見舞われ、あっという間に冬が始まった。大慌てで冬タイヤへ履き替えにガソリン・スタンドへ向かったが、スタンドは意外に静かだった。雪国に住む人は、「備えあれば憂いなし」が徹底されている。「今年の冬は遅いね」などと脳天気に構えていたのは僕だけなのかもしれない。大通公園二丁目のミュンヘン市が始まった。幻想的な冬を演出する素敵な空間。これから迎える過酷な冬を過ごす住民へのご褒美だ。

クリスマス商戦もたけなわ。そんな時期ビートルズの「1」が発売された。2000年に出たビートルズのナンバーワンヒットシングル曲を集めたアルバムがさらにデジタル・リマスターされ生まれ変わった。特典映像付きのセットもあり、発売日はNHKのトップ・ニュースにもなったようだ。Photo_8


今の若者は洋楽を聴かなくなったと言われて久しいが、ビートルズはどうなのだろう。音楽の専門学校でロックの歴史講座を受け持っている友人に言わせると入学生の半数はビートルズを知らないそうだ。その話を聞いて最初は驚いたが、これからの時代を作っていくのは彼らなのだから勝手にさせておこう。

僕がビートルズを映画館のニュースで知ったのは1964年のこと。特に「りんご」と呼ばれる鼻の大きな男のことが気になった。しかし彼らの音楽に魅了されるほどまだ自分は熟していなかった。ビートルズに自分を重ねるようになったのは、Photo_14


「ペニー・レイン」/「ストロベリー・フィ-ルズ・フォーエヴァー」が発表された頃のように思う。高校受験に失敗しいじけていた頃にこの二曲が発表された。極上のポップなメロディーを持つ「ペニー・レイン」の方がヒットしたが、その頃の自分の気分は「ストロベリー・フィールズ」にフィットした。ジョン・レノンが少年期に過ごした家の近くにあった孤児院をモチーフにしたこの曲は、それまでのポップ・ソングの概念を覆すもので、ビートルズは明らかに変貌を遂げようとしていた。その頃歌詞の意味など全然わからなかったけれど。


「サージェント・ペパーズ」が発表されたのは、英米では1967年の6月。その頃のビートルズはシングル曲をアルバムに加えない方針だったのでペパー構想にあった「ペニー・レイン」「ストロベリー・フィールズ」同月に宇宙中継された「アワー・ワールド」で歌われた「愛こそはすべて」はペパーから外れた。この3曲が加わっていたら「サージェント・ペパー」は世紀の名盤になっていただろう。
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この三曲が外れたことで、A面トップ曲候補に浮上したのが「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」。当時ちょっとした流行になっていたニュー・ボードビル・サウンドを皮肉ったともいわれた曲。今からずっと先のこと、64歳になり髪が薄くなってもヴァレンタイン、誕生カードやワインを贈ってくれる?僕はヒューズを取り替え、君は暖炉のそばでセーターを編む。庭いじりをしたり草を抜いたり、これ以上望むものはある?永遠に僕のものと言ってくれる?そんな僕を64歳になっても必要としてくれる?食べさせてくれる?といった内容を持ついつか訪れる人生の黄昏時を歌った曲だ。

ビートルズプロデューサージョージ・マーチン自作著「メイキング・オブ・サージェント・ペパー(水木まり訳)」によると、この曲はポールが当時64歳になった父親に捧げた冗談ソング、ボードビル物へのひやかしと捉えられているが、それだけではなくポールの「地獄に対する個人的見解」の歌なのだそうである。歌詞の裏を読めば「年をとるって最悪だね。平凡、単調、空虚、貧困、決まりきった仕事」。Photo_12


映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」において「ポールのおじいさん」が重要な役で登場する。映画でビートルズは爺さんを徹底的にやっつけた。爺さんをネタに古臭いものの否定にかかったのだ。老人は厄介で、狡猾であることが描かれる。そして最後には爺さんの機転でビートルズは救われるのだ。ポールが10代の頃に書いていたと言われている「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」は様々な屈折した老人への感情が込められてるのだろう。でなければ、一筋縄でいかない「サージェント・ペパーズ」にこの曲が加われるわけがない。ポールはこの曲をコンサートで未だに歌ったことがない。
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映画「ガープの世界(ジョージ・ロイ・ヒル監督)」で絶妙に使われていましたね。

自分がいつの日か64歳になるなど、宇宙の存亡と同様想像を絶するものだった。時間というお金では買うことができない未来が無限にある、はずだった。1966年12月6日は「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」のレコーディング・セッションが始まった日だそうである。49年前の今日だ。そして僕はあと三日で「地獄」の64歳を迎える。


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ザ・ヴェンチャーズ初見参 ありがとうドン

結成40年センチメンタル・シティ・ロマンスのキーボード奏者として、また売れっ子プレイヤーとして様々なレコーディング、ライブに引っ張りだこの細井豊さんがガーシュウィンを訪ねてくれた。女優の岸恵子さんの自作小説の朗読会の背景音楽を、ピアノ、アコーディオン、ハーモニカなどで独奏する仕事のための札幌入りだった。細井さんの計いであやこは朗読会を鑑賞し、終了後は楽屋で岸恵子さんご本人に紹介していただけた。意外に小柄だが、高いヒールを履きこなし、82歳とは思えない凛としたたたずまいに圧倒されたそうだ。昭和を代表する大女優である。


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僕は同じ82歳のギタープレイヤーの引退公演に行ってきた。その名はドン・ウィルソン。言わずと知れたザ・ヴェンチャーズのリーダーにして最後のオリジナルメンバー。テケテケギターのパイオニアのひとりである。このクロマチック・ラン奏法から発せられたエレキ音が雷に変わり脳天を打ち抜かれた若者が1960年代半ばに続出した。「続出」がどの程度の割合かは多くの意見があるところだが、中学校のひとクラスに数人でも全国規模では相当な数になるはず。僕も雷に打たれた一人だがそれは中学1年生の頃、小学校まではエレキ音が響く家を見つければ、ガキっ子たちと「不良、不良」と窓を指さしていたのだから、人生どう転ぶかわかったもんじゃない。

1965年、日本でエレキブームが起きたヴェンチャーズ二度目の来日公演、札幌では道新ホール(定員650名)での公演だったそう。僕にとって当時小遣いはシングル盤を買うだけで飛んだのでライブを見るなどという発想はなかった。そんなこんなでヴェンチャーズを生で聴く機会は一度もなかったのだが、今回のコンサートはドン・ウィルソン最後の公演であることを知り、ヴェンチャーズのドン(首領)のドンに仁義を切らねばとチケットを早々に購入した。

2015年8月3日(月)札幌ニトリ文化ホールに到着してみると、入場が遅れたのか会場前は長蛇の列、当日券は「売り切れ」とあった。2400名収容の会場だからこれはたいしたものである。列に並んだ、昔はチョイワルだったかもしれない先輩諸氏、同輩、今では初老のオヤジ集団。夫婦連れも数多く見られる。

ステージは「クルエル・シー」からスタート。中学校時代のスキー学習、スキー場のスピーカーから流れるこの曲には文字通り痺れた。純白のゲレンデが蒼い海原に変わった。メンバーの二人は亡くなったが、ステージで演奏される曲目はこの50年間ほとんど変わっていない。しかし、かつての栄光にすがり巡業をおこなう音楽家に対して「ヴェンチャーズ興業」と揶揄していた自分の独断は撤回しようと思う。全国津々浦々今でも多くのファンを持ち、50年間それらの人たちに「若さ」を提供し続けたのだ。その間の努力たるや並大抵のものではなかったであろう。78歳のリード・ギター、ジェリー・マッギーの「朝日のあたる家」は想像していたよりずっとかっこよかったし、テクニックは今でも素晴らしい。メンバーは皆真面目に誠実に粛々と仕事をこなしていた。

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ドン・ウィルソンはデビュー当時の資料を見ると身長175センチと記されているが、ステージの彼は背中が曲がり、身長も随分縮んで見える。しかし、ギターを持つその姿は誇らしげなものであった。この50年間ステージのアンコール曲はドラムソロが延々と続く「キャラバン」が定番だったそうなのだが、今回は「ダイアモンドヘッド」「パイプ・ライン」のメドレーだった。ドンがまさに(リード)リズムギターといった趣でステージのフロントに立ち「テケテケテケ」の連発。多少指がもつれようと、入りを忘れようとそれがなんだ。有終の美を飾るというのはこういうことなのだ。縮んだはずのドンがそのときは大きく大きく見えた。


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「ファイブ・イージー・ピーセス」を覚えている?

BAR GERSHWINでは毎月一回第三月曜日に「GIRL’S NIGHT IN GERSHWIN」という名の催しがある。ピアニスト山下泰司の伴奏でさまざまな楽器、歌の方たちが熱演を披露するイベントだ。初心者から腕達者まで参加は自由だが、タイトルにあるように女性限定とさせていただいている。月一回の発表会を皆さん心待ちにしてくださっているようで、先月で始めてから一年がたった。

20代から60代まで幅広い年齢の方たちが参加しているが、ヴォーカルで参加の方が一番多い。英語の歌を軽やかに歌うような方たちばかりなので皆さん聡明で趣味も幅広くお持ちの方たちばかりだ。ほぼ最年長参加のKさんは、B.バカラックやE.コステロなどの難曲をレパートリーにしている。ご自身映画のブログを長く続けておりそこではプロ顔負けの鋭い映画評を読むことができる。

そのKさんと映画「ファイブ・イージー・ピーセス」がひょんなことから話題になった。映画「イージー・ライダー」は今の時代、鑑賞に堪えうるかといった話題がきっかけだった。今では忘れ去られているこの「ファイブ・イージー・ピーセス」、1970年に作られたアメリカ映画で、ボブ・ラフェルソンが監督しジャック・ニコルソン主演カレン・ブラック共演、作品賞はじめアカデミー賞4部門にノミネートされ、当時評論家今野雄二さんなどが絶賛し日本での評価も高かった。映画通の方ならお気づきかもしれない、監督のボブ・ラフェルソンは1960年半ばの「モンキーズ・ショー」の立案者で監督を務め、「イージー・ライダー」にも出資しあの時代の波にうまく乗った人である。「イージー」とタイトルがダブるように「イージーライダー、その後」的な趣がこの映画にはある。


期待されたピアニストであったにもかかわらず、現在はあらゆる責任を回避し(ラストシーンは妊娠した彼女を置き去りにする)、その日暮らしを続ける主人公(ジャック・ニコルソン)はあの時代の象徴的な人物像だったように思う。今の時代の視点からみるととんでもなく情けない男であるが、戦い終えて日が暮れて・・・あの時代こんな男をどこか許容するムードがあった。皆つかのまのやさしさに逃げ込んだ。

音楽でもハードなロックよりも内省的なシンガー&ソングライターの音楽が支持された時代だった。思わせぶりの内容の曲が世の中にあふれた。今では気恥ずかしくて聴けない曲が多い。でも、なのだ。スチューデントパワー(学生運動)に参加した者も、ヒッピー・ムーブメントに賛同した者も、ノンポリを通した者もあの時代の空気の中で自分なりの生き方を探していた。近道を行った者も遠回りしてしまった者も今じゃそれなりの道を歩いているんじゃないかな。あの頃の思想(生き方)にとらわれている人ほどひょっとして立ち止まったままだったりして。

今の自分の視点で昔を振り返ると、きっと皆穴があったら入りたくなってしまうのだろうけど、そんな自分を愛おしんであげよう。自分なりに精いっぱいやっていた、きっと。

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ダイアナ・クラール「WALLFLOWER」よみがえる珠玉の名曲たち

英国人歌手ジョー・コッカーが亡くなった。世に彼の存在を知らしめたのは「ウッドストック・ミュージック・フェスティバル(1969)」への出演だった。ビートルズののどかな曲が真っ黒のブルースに変貌する「With A Little Help From My Friends」の熱唱は忘れられない。その頃まだ10代だった僕には十分すぎる衝撃だった。その後映画にもなったレオン・ラッセルなどとの「Mad Dogs&English Man」コンサートでその名を不動のものとする。彼の特徴はそのだみ声によるソウルフルな歌唱だった。一聴しただけで彼と分かる歌声。もし彼やロッド・スチュアートが美声だったらここまで歌手としてのキャリアを積めたのだろうか。ロック・ジャズにおける悪声はヴォーカリストの価値を高める場合が圧倒的に多い。

カナダ出身のダイアナ・クラールも特徴あるハスキーヴォイスが持ち味の歌手である。彼女のデビューの時レコード会社はヴォーカリスト/ピアニストどちらで売ろうか悩んだそうである。結局シャーリー・ホーンばりのスロー・バラードを得意とする弾き語りのヴォーカリストとして売り出すのだが、一流のピアニストの腕よりも二流のそのだみ声の魅力に賭けたのだろう。現在彼女はポール・マッカートニーのアルバムに呼ばれるほどの押しも押されぬ超一流のジャズ・ミュージシャンである。

そんな彼女の新譜「Wallflower」を聴いた。どんな経緯でこのアルバムが制作されたかは知らないが、プロデューサー&アレンジにデイビッド・フォスターを迎え60年代、70年代、80年代の超ど級の名曲ばかりが選曲されている。よくもここまで揃えたと感心する名曲たち。ほとんどの曲が彼女のヴォーカルスタイルに合ったスロー・バラードに編曲されている。一曲めはママス&パパスの「夢のカリフォルニア」。オリジナル曲の持つ時代性も特徴も見事に排除され、スローボッサ風にアレンジされたこの曲がアルバムトップ曲とは意表を突かれた。さすがデイビッド・フォスター仕事人、商売人だ。

ほぼ全曲にゴージャスなストリングスアレンジが施され、アルバムを格調高いものにしている。参加ミュージシャンもコーラス、デュエットにグラハム・ナッシュ、スティーブン・スティルス、ティモシー・シュミット、ブライアン・アダムス、マイケル・ブーブレなど、演奏ではディーン・パークス、ジム・ケルトナーがいい味を出したサポートをしている。ノン・ビブラートに近いぶっきらぼうなダイアナの歌唱スタイルでは表現しきれなかった曲もあったが、デイビッド・フォスターの編曲はそれを補って余りあるものだ。ぼく個人としてはデュエットのマイケル・ブーブレが素晴らしい、ギルバート・オサリバン「Alone Again」。グラハム・グールドマン&エリック・スチュアート作10CC「I’m Not In Love」ボニー・レイットやリンダ・ロンシュタットもカバーしているランディ・ニューマン「Feels Like Home」。ポール・マッカートニーをして「この時代に(1980年代)こんなメロディーが残されていたとは」と驚愕せしめたクラウディド・ハウス「Don't Dream It's Over」のカバーが気に入った。素晴らしい。

久しぶりにリッチな(物、心両面で)アルバムを聴いた気がする。今この時代に、こんなアルバムを作ってしまったデイビッド・フォスターに拍手。

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