ファンを大切に大切に              ダルビッシュ有、山下達郎

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今シーズンから大リーグ、テキサス・レンジャーズに移籍したダルビッシュ有投手が調子を上げてきた。日本のスポーツメディアは連日熱心に報道している。ピッチャーの最大の魅力は三振奪取。日本球界屈指の右腕が大リーガーたちをどこまで切りきり舞いさせることができるか。野茂英雄以来の興奮で僕も毎朝の実況中継を楽しみにしている。

北海道に住む僕はダルビッシュをルーキーの時から身近に見ることができた。最初の勝利、初めて球速150キロを記録した瞬間、結婚/子供の誕生の報告、メディアにはかたくなでも、ファンに語りかけるとき彼は素の自分をさらしていたように思う。純朴なダルビッシュがいつもそこにいた。なぜメジャーリーグ入りをしたか、その本当の気持ちを彼はレンジャース入団会見では語らなかった。後日行われた札幌ドームのお別れ会見で「力と力の勝負がしたい」とファンの前で初めて本心を吐露した。プロとはどういうことか、ファンがあっての自分であるということを25歳の若さで彼は知っていた。

2012年4月15日、札幌ニトリ文化ホール。山下達郎「2011-2012」コンサートを観た。我が家から家族3人でぶらぶら歩きながら会場に向かった。散歩がてらに達郎を聴けるなんて最高の気分だ。達郎の新譜は欠かさず聴いているが、コンサートは初体験だった。6~7年に一度しか行われないコンサートでは、熱心なファン以外チケットを入手できるわけがなく、また日曜日しかコンサートに行けない僕の職業的事情もあって、達郎コンサートは半ばあきらめていた。ところが数年前から達郎は毎年ツアーを行ない始めた。おまけに今年の札幌公演は日曜日が含まれる。幸いにもチケットを入手でき、コンサートを昨年から心待ちしていた。

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3時間を優に超えるステージとはいったいどういうものなのか、コンサートを楽しむというより、一体そこで何が行われるのか、そのことに対する興味がまず先に来てしまう。「東京のコンサートは最前列にスーツ姿の業界人が「どんなもんよ」と腕組みして聴いていることがあり、やりにくいったらありゃしない。」と達郎が語ったちょうどその時、腕組みして聞いていた僕はばつ悪くそっと腕組みを解いた。その昔ある札幌のバンドのライブを聴きに行った時、その最中ヴォーカリストから「雰囲気悪いぜ」と指を差されたことがある。腕達者のメンバーがそろうバンドだったので、どれどれお手並み拝見と表情厳しく見ていたのかもしれないが、決して楽しんでいなかったわけじゃない。何も指をさすことはないだろう。検証的にコンサートに行くとロクなことはない。

達郎コンサートで何に驚いたかって、まずその能弁ぶり。CDやラジオを聴いていただけではわからない。彼が「チンケ」と称するフォーク歌手にも負けない圧倒的なしゃべり。ファンに直接濃密に語りかける。MCなどなくとも達郎のコンサートは十分成り立つ。しかし彼はそう考えていないようだ。3時間余の観客との邂逅を無駄な時間としないよう必死だ。「お客様は神様です」三波晴夫の至言が頭をよぎった。この数年コンサートを続けている理由を「実演こそ音楽家の基本」と考えるにいたったと説明した。

ライブ・パフォーマンスが二十数年前発表した彼のライブアルバム「JOY」から何も変わっていないことにも驚かされた。まるで同じ演目を話しつづける落語家のようだ。しかし世界は確実に深くなっている。新作アルバム「RAY OF HOPE」の楽曲が過去の名曲に混ざっても引けを取らないどころか、より説得力をもって聴こえる。1億3千万人に等しく届く歌ではないかもしれないが、アルチザンとして練りに練られた曲と詞は、人はどうあるべきかへの切実な提言が含まれている。達郎はまた一つ階段を上ったようだ。ポップ・ミュージックの進化の一つの到達点を見た思いだ。

「録音しておけばよかった」と彼自身がステージで語ったように、その日のパフォーマンスに彼は満足だったようだ。そんなときに彼を初めて聴けて幸運だった。感動が持続しない病にかかって相当の年月がたつが、山下達郎コンサートの3時間半の余韻は半月たってもまだ続いている。もう一度聴く機会があったら、今度はクラッカーもっていこうかと(ライブを知るファンだけの秘密)、一緒に行った娘と話している。

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ドリス・デイの「MY HEART」は心に染みました

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まもなく88歳のドリス・デイの新作「MY HEART」を愛聴している。新作といっても2~30年前に録音されていたものらしく、歌声がみずみずしい。息子のテリー・メルチャーとブルース・ジョンストン(現ビーチ・ボーイズ)がプロデュースをしている。つんとすましたドリス・デイの歌声にはなじめなかったし、「知りすぎていた男」「二人でお茶を」などの映画(この二本しか見ていない)の演技もどうということがなかった。映画「卒業(1967)」でアン・バンクロフトが演じたミセス・ロビンソン役、最初はドリス・デイにオファーがあったと何かの記事で読んだことがある。当時42歳のドリス・デイには年齢的にも適役で、彼女の新境地を開拓できた気もするが、もし実現していたらアメリカ映画界は天と地がひっくり返ったような騒動になっただろう。結果的に出演せず健全な彼女のイメージは損なわれることなく今日に至っている。


そんなに好きじゃなかったはずのドリス・デイ。でもこの新作が妙に心にしみてしまうのは、制作に息子テリー・メルチャーが関わっているからに違いない。サーフィン/ホットロッド音楽にかかわり、バーズのプロデューサーとして世にフォーク・ロックを知らしめ、同時代ポール・リビア&レイダース(大好きだった!)のプロデューサーとしてバリー・マン&シンシア・ウェイルの楽曲を見事にロック仕立てにもしてみせた。あの時代の衝撃的な事件、チャールズ・マンソン一味によるシャロン・テート惨殺事件も、マンソンと音楽的親交があり家の持ち主だったテリー・メルチャーが狙われたのではないかとの説もあるくらい、1960年代のカルチャー/音楽シーンを語る時に避けて通れない人なのだ。
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アルバム「MY HEART」は1940年代から時間がとまってしまったのではと錯覚しそうなスタンダード曲とテリー・メルチャー&ブルース・ジョンストン作などの定番ソフト・ロック曲で構成されている。まとまりのないアルバムであるけれど、2004年に亡くなった放蕩息子と言われていたテリー・メルチャーへの母親ドリス・デイの想いが特に70/80年代の楽曲からひしひしと伝わってくる。どのような過去であれ過ぎ去った時は美しい、と感じさせてくれる素敵なアルバムだ。表題曲「MY HEART」とテリーのヴォーカルで歌われる「HAPPY ENDING」がとりわけ素晴らしい。

ジョージ・ルーカスが映画「アメリカン・グラフィティ」をこしらえたのは1974年。この映画の舞台は1962年。たった12年のタイムラグしかないのにノスタルジー漂う映画だった。あの頃に比べ今は時代のスピードが加速度を増していて12年前などつい昨日のような気がしてしまう。時間がゆっくり進んでいた時代は本当にいろいろな出来事があった。いや出来事を一つ一つ吟味する時間があったというべきか。ポール・マッカートニーの新作もスタンダード曲で作られている。未来の人々が耳を澄ますのは、このような、時間がふんだんにあった日々の音楽じゃないかな、などとふと思う。

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由紀さおり「1969」からなぜかザタイガース

由紀さおりのアルバム「1969」がアメリカで売れ話題になっている。発売早々ビルボードチャートの上位にランクイン。ほぼ全曲が日本語で歌われている。一部では坂本九「上を向いて歩こう」以来の全米ビッグヒットかと囁かれている。が、あまりヒートアップしないほうがいいかと思う。ジャズチャートにランクインしていることからもわかるように、共演しているピンク・マティーニ楽団の功績/知名度によるところ大、と思われるからだ。ピンク・マルティーニ楽団のことは初めて知ったが、どんな音楽をも取り込んでしまう雑食性のジャズバンド。「21世紀の歌謡曲」をこのところ標榜している由紀さおり/スタッフとの思惑が一致したのだろう。昭和40年代の歌謡曲が主に選曲されているこの「1969」、歌謡曲を「クール」ととらえたピンク・マルティーニの偉大なる時代錯誤の勝利ということか。にしても「夕月」のようなオリエンタル・ジャパンが誇張されたアレンジがこの時代においてまかり通るとは。マヒナスターズとか美輪明宏の曲をかつてレコーディングしていた、というオタク趣味あふれる楽団だからこそのなせる技だ。

しかしこの事実は僕に軽い眩暈を起こさせる。「歌謡曲」、どんな音楽をも取り込んでしまう節操のなさ、誇張された日本人的情緒、歌手のダサさ。10代の僕には全然「クール」なんかじゃなかった。後日、作詞作曲家、アレンジャー、バックミュージシャンなどスタッフの優秀さを知ることになり、それなりの評価を僕もするようになるが、「歌謡曲」どれほどこの単語を忌み嫌ったことか。

僕らポスト団塊と呼ばれる世代(1950年代前半生まれ)は「第2 Give me chocolate」世代と揶揄されることがあるほど、西洋ことにアメリカの文化の影響をもろに受けた世代だ。アメリカンポップスでおいしいキャンディを味わい、ヴェンチャーズ、ビートルズで電気楽器のインパクトを知り、ヒッピームーヴメントでは既成価値を疑うことを知った。そんなコンテンツが目まぐるしく入れ替わる時代にあっても「歌謡曲」はカッコ悪いことの象徴だった。

昭和は僕にとって、「日本的」でないものを模索した時代だった。日本的であることは守旧であり、つまらないもの事の代名詞だった。国内産音楽で初めて日本離れの可能性を見たのは「グループサウンズ」の誕生だったかもしれない。とりわけゴールデン・カップス、カーナビーツ、モップスなどには興奮させられたが、常に気になってしょうがなかったのが沢田研二(ジュリー)がいたザタイガース。男で「タイガースが好き」とはとても言えない時代の雰囲気だったが、沢田研二の魅力にははあらがえない何かがあった。タイガース解散の後、まさに歌謡曲の権化、ともいうべきなりふり構わぬ彼の活動は、僕のアンテナから外れてもいいはずなのだが、無視できぬものがあった。きっとそれはジュリーのロックに対するこだわりだ。そのスピリットを感じ取れる限り、彼は僕にとっての稀有なロックスターだった。

沢田研二バンドは井上崇之バンド、エキゾチックスそして現在も優秀なロックミュージシャンにより固定されている。現在キーボードを担当しているのは大山泰輝さん。聞き覚えのある方も多いだろう。かつて宮田あやことアルバム「BEWITCHED」を制作しGOLDEN SULUMBERS(GERSHWINの前身)でも演奏活動を行っていた彼だ。11月3日の沢田研二コンサート後GERSHWINを訪れてくれた。ジュリーバンドに長く在籍する彼に、ジュリーとのささやかな接点を見いだし、内心ほくそ笑んでいた僕だが、今回はさらなるサプライズが用意されていた。彼は岸部一徳さんを連れてきたのだ。説明は不要だろう。ザタイガースのベーシストであり現在はいぶし銀の俳優として知られるサリー!人の話をよく聞き、求められたときに自分を語り、周りの人への配慮もさりげない・・その人間性には感服してしまった。今回の沢田研二コンサートではタイガースのメンバーが共演している。サリーはロック・ミュージシャンとして現れたのだ。かつての僕にとってのスターが今もなお尊敬できる人として同じ空間にいる、奇妙な眩暈をこの時も感じた。

「ロック」が音楽の一ジャンルをさす意味だけの言葉ではない。そのことは、あの時代ロックンロールを愛し今なお音楽を必要とする人の共通認識だ。そういう意味で「歌謡曲」だってある人にとって「ロック」なのだ。時代の荒波をくぐりぬけてきた音楽にはきっと、時を超えた物言わぬ「力」がある。月日の経過と共に、なんであんなにかたくなだったんだろう、と反省しきりの今日この頃だが、しかし、「クール」な歌謡曲だけはご勘弁願いたい。いつまでもカッコ悪いものであってほしい。それが時代の記憶というものなのだから。由紀さおりの艶やかな歌声とピンクマルティーニ楽団だからこそ、昭和のエッセンスを美しく表現できたのであることをどうぞお忘れなく。

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井上鑑「僕の音、僕の庭」出版記念          「Garden Party」In 札幌

時は1979年7月某日、東京池袋サンライズ・スタジオ。普段は主にオーヴァー・ダビングなどに使われる小さなレコーディングスタジオなのだが、この日は宮田あやこファースト・アルバム収録予定のまだ歌詞のついていない林哲司曲のオケ録りに音楽家たちが集まった。メンバーはドラム市川康、ベース恩蔵隆、アコースティックギター藤田洋麻(現洋介)、エレクトリック・ピアノ井上鑑、ヴォーカル宮田あやこ。市原氏、井上氏とはこの日が初対面だった。スタジオに着いたら井上氏はすでにブースでピアノを静かに弾いていた。一見、学生?と見間違うほどのすがすがしい印象だった。録音中モニタールームでプロデューサーが「今期待されているピアニストで、編曲もでき、歌手のやまがたすみこさんと結婚しているんだよ。」と耳打ちしてくれた。林哲司曲は今剛によるエレクトリック・ギター、斎藤ノブのパーカッション、小笠原寛スコアによるストリングスなどが後にオーヴァー・ダビングされ、歌詞を松本隆が書き「CALIFORNIA SUNSET」という曲として完成した。歌録りのときは松本隆氏自らが指導、暗い陰が漂う歌詞に明るい表情の歌唱をあやこに提案、曲はより説得力あるものになった。プロの力を垣間見た瞬間だった。

二度目に井上鑑に会ったのは翌年6月、宮田あやこのサポートバンドのメンバーとしてだった。ギター今剛、藤田洋麻、ベースマイク・ダン、ドラム上原裕、キーボード井上鑑で結成されたこのバンドは、新人には贅沢すぎるものだったが、プロデューサー松本裕とレコード会社丸山茂雄氏の意向で決定され、バンドとあやこの活動は5ヶ月間にも渡った。日産ラングレー車のCMソングを彼の曲編曲/松本隆詞であやこが歌ったのもいい思い出だ。コンサートのためのリハーサル後に録音スタジオ入りしたのでメンバーはヒート・アップしていて、演奏が熱い。手元に音源があるのだが、ドライヴ感あふれる素晴らしい演奏だ。

出会ったころに比べて井上鑑の印象は大きく変わっていた。髪にアフロのようにパーマがかかり、自信もみなぎり、活動の充実が伝わってきた。バンドは彼と今剛が双頭リーダー、アレンジも二人が行った。今剛は1stアルバム「STUDIO CAT」をあやこのアルバム「LADY MOCKIN' BIRD」と同じく1980年7月21日に発表していて並行してパラシュートというバンドも結成していた。林立夫、松原正樹、斎藤ノブ、マイク・ダン、安藤芳彦によるラインアップは当時の日本の若手一流スタジオ・ミュージシャンの集まりで、アメリカの、STUFF、TOTO、などといったスタジオミュージシャンバンドに呼応して日本でも結成されたスーパーバンドだった。笹路正徳などが結成した「マライヤ」というバンドもあったが,パラシュートはテクニックもさることながら「歌」を中心に据えたバンドだった。ご機嫌なアメリカンバンド、といった趣があった。

そのパラシュートに井上鑑は3rdアルバムから正式加入する。クールでファンキーなピアノはニュー・オーリンズのルーツを感じたし、シンセサイザーも独特の世界があった。実力ではパラシュートのメンバーに引けを取っていなくメンバーとして何の違和感もなく、パラシュート加入はバンドにも彼にもいい結果をもたらした。推測だがパラシュート加入には今剛の強い推薦があったのではと思う。この頃アメリカで圧倒的世界観を示していたスティーリーダンのドナルド・フェイゲン&ウオルター・ベッカーもしくはエアプレイ ジェイ・グレイドン&デイヴィッド・フォスターに井上鑑&今剛を重ねることができる。この二人の最良のコラボレイションは寺尾聰「REFLECTIONS(1981)」井上鑑ソロアルバム「PROPHETIK DREAM(1982)」はじめ多くのヒットソングで聴ける。井上鑑は寺尾聰「ルビーの指輪」で1981年レコード大賞編曲賞を受賞、時代の寵児となる。郷ヒロミのアルバムではレコードの帯に大きく「井上鑑サウンドプロデュース」と記された。一編曲家がセールスのフロントに立ったのは日本音楽史上初めてのことだったのではないか?大晦日のレコード大賞授賞式、ライダー服のよう飛行服のようななコスチュームに身を包んだ彼は断然カッコよかった。新しい時代の音楽家の誕生を感じた。身内が受賞したような気分であやこともどもTVの前で歓声を上げたものだ。


パラシュートのライブや様々な音楽家のサポートで1980年初頭はたびたび来札し、よく一緒に飲み歩いたものだけど、そんな機会も徐々になくなっていった。その間彼は13枚のソロ・アルバムを作り、世界にも活動の場を広げ、着実に世界を構築していた。そのあたりのことは発売されたばかりの「僕の音、僕の庭(筑摩書房)」に詳しく書かれている。現在彼の重要な仕事は福山雅治とのもの。この数年アルバムでは編曲家として、ステージでは演奏家として音楽監督としてかかわっている。この仕事が彼が脚光を浴びる何度目かの機会になっているように思う。今月号の月刊誌「SWITCH」では二人のコラボレーションの特集が組まれている。

そんな彼のライブが2011年9月23日札幌のライブハウスで聴けようとは。福山雅治4DAYS コンサートの合間を縫って行われた。東京以外国内では行われる機会のない彼のライブ。札幌のファンには大きな贈り物だった。発売日に僕らは予約したのでチケットを買えたけど、何人かの友人は買うことができなかった。二日間ほどであっという間に売り切れてしまったようだ。一般へのインフォメーションはまったくなかったのにこの売れ行き、福山雅治とのコラボレーションの影響が大きいと思う。福山を通して彼の仕事の面白さに気づいたファンがいち早くライブ情報をキャッチしたようだ。

この日のライブのゲストにも驚いた。一緒にGREEN BALL SESSIONというユニットを続けている小倉博和(ギター)三沢またろう(パーカッション)に加えて今剛(ギター)高水健司(ベース)山木秀夫(ドラム)山本拓夫(サックス)村田陽一(トロンボーン)、引っ張りだこの超一流のセッションマンたちだ。彼らが入れ替わり立ち替わり井上鑑と演奏を繰り広げる。目の前2メートルで一人一人のプレーが聴けてしまのだからこれは贅沢なんてもんじゃない。至福の時を過ごさせていただいた。なんども「楽しいですねえ」と井上鑑が語っていたように、音楽と嬉々として戯れる様子が伝わってきた。しかし内容はドラムとキーボードだけの13/16拍子の曲とか、一瞬たりとも息を抜けない難曲の連発。音響も十分なものとはいえないなかこれだから・・・ま、彼らのマジックに驚かされるのは今に始まったことではない。

札幌の自然派シンガー横田岳史もゲストでグリーン・ボール・セッションをバックに歌った。この日の観客にとって無名に等しいシンガーのバックでの彼らの演奏も素晴らしかった。あんなすごい伴奏で歌えるなんて横田氏本人が一番驚いたのではないかな。福山雅治コンサートの後、彼は地元の馬頭琴奏者の嵯峨さんとのライブも行っていった。庭に種をまくがごとき、そんな彼の音楽に対する姿勢は素晴らしい。

彼の著「僕の音、僕の庭」は彼の音楽に対する姿勢が真摯に書かれていて、一気に読めた。示唆に富む深い表現が多く、あらためて音楽を考えるいいきっかけにもなった。現代音楽家のチャールズ・アイヴズが子どものころ音楽教育者でもある父親から受けた逸話が紹介されている。仕事をしながら調子はずれに歌っている石工の歌に対して父親はアイヴズにこう言ったという。[悪い音は聞かなくてよい、歌の中にある情熱、真剣さ、没頭している姿そのものを聞きなさい。」。また、井上鑑はイングランドサッカープレミアリーグで自然発生的に歌われる応援歌への熱いシンパシーも吐露している。こういった事例の紹介に、はみ出してしまった音楽を認める器量をもち、また「生きている」音楽を追い求める彼の姿勢を認めることができる。

ステージ最後に彼は「成長」という言葉を自らに使った。彼の音楽がいつもフレッシュで古びないその解答を聞けた気がした。「あこちゃん、ずっと音楽を続けてね。」あやこが歌を休業中の時、彼はそう言葉をかけてくれた。その言葉をあやこは今でも忘れていない。音楽がなくても生きてこられたかもしれないけど、音楽によって人として成長できたように思う。音楽を続けてきてよかった。

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上を向いて歩こう

前田武彦氏が亡くなられた。「夜のヒットスタジオ」「ゲバゲバ90分」などあの時代のTV界の寵児としてもてはやされた人であるが、僕にとっては彼はラジオの人として印象深い。1965&66年頃、毎週日曜日夕方オンエアーされていた「東芝ヒットパレード」は僕がポップ・ソングに惹かれるきっかけとなった思い出深い番組だ。当時の東芝レコードはキャピトル、リバティ、オデオンレーベルなどと契約しており、英米のポップ/ロックミュージシャンの重要な部分をおさえていた。ビートルズ、アニマルズ、デイブ・クラーク・ファイブ、ホリーズ、マンフレッド・マン、ハーマンズ・ハーミッツ、ピーター&ゴードン、クリフ・リチャード、ビーチ・ボーイズ、ヴェンチャーズ、PPM・・・。洋楽ヒットパレードも東芝所属の音楽家だけで作れてしまいそうな勢いだった。木元教子さんとの進行も楽しかった。夜10時には「ヤングヤングヤング」という番組もあった。榊原るみ、小橋玲子をアシスタントに毎回20分月~金、帯で放送されていた。裏番組にモコ、ビーバー、オリーブのちょっとエッチな「パンチパンチパンチ」があったが前田武彦の話術にはかなわなかった。昭和がだんだんなくなっていく。

東芝レコードといえば、1985年8月11日に不幸な飛行機事故で亡くなられた坂本九氏も所属していた。1961年、19歳のときに発表した「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」とタイトルを変え、1963年にアメリカで発表され、世界中で大ヒットした。アメリカではチャートのトップに上り詰め100万枚を売りミリオンセラーを記録した。1961年~63年という時代はポップミュージックの興隆期にありフィル・スペクタープロデュース作品、ビーチ・ボーイズなど健康的なヒット曲であふれていた。ケネディ大統領の時代だった。坂本九もケネディーカットを売りにしていたっけ。「SUKIYAKI」がビルボード、キャッシュ・ボックストップになったのは6月のこと、ケネディ暗殺は同年11月。初の日米テレビ宇宙中継が実現した日だった。その翌月には力道山も死亡。子供ながらに世の中の無常を感じた初めての体験だったかもしれない。日本で原子力発電が東海村で始まったのも同年10月26日のことである。翌年は東京オリンピック、ビートルズもあらわれた。日本は経済的成長に向け大きくかじを取った。大切なものが次々と失われたが、新しいものが続々と生まれ、失ったものに配慮する余裕などなかった。最近何かと耳にする「上を向いて歩こう」。永六輔の挫折の詞を希望の歌に変えたのは坂本九の明るい歌唱だ(佐藤剛氏著作より)。歌の持つマジックをまだ信じていたいと思う。

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夏の風を感じながら

いいなあ、北海道の夏。8月4日現在、気温は30℃をまだ二度しか越えていない。我が家のエアコンは試験運転で一度動かしたきりだ。昔と違うのは湿気のある日がたまにあること。特に6月は蝦夷梅雨とでも呼びたい日々が続いた。でも今はIt's all right。夜風は涼しく、寝苦しさなど一度も感じていない。東京で学生生活を送っていた頃、夏に帰省するとき機内で「現在の札幌の気温は19℃」などと放送され乗客がざわめいたものだ。北海道に故郷をもつ幸福感にひたった。あの頃の夏は北海道全体が自然のクーラーだった。

窓から入ってくる、ゆるい涼しい風を感じながら、昼下がりに聴く音楽は10代の頃に聴いたものが多い。たとえばキンクスの「サニー・アフタヌーン」。日本発売は1966年の秋だったので、夏の記憶とは結びつかないのだが、その後、タイトルゆえに僕にとって夏の絶好のアイテムとなった。歌の意味はただのぐうたら男が世の中に愚痴言ってるだけのつまらないものなのだけれど、気持ちのいい昼下がりの脱力感のバックグラウンドとしてはいかしている。あやこの「ドリーム・ア・リトル・ドリーム」のアルバムタイトル候補に一度は考えたけど、レイ・デイビスのこの歌詞が浮かんできて踏み切れなかった。

ヤング・ラスカルズの「グルーヴィン」はまさに僕にとっては10代の夏を感じられるもの。「ガール・ライク・ユー」「高鳴る心」など名曲揃いの彼らのアルバム「GROOVIN’」は最高だった。以来45年何度買い直したことだろう。あの頃の夏はポップ・ミュージックと共にあった。海も山もバイトもせずただひたすら部屋にこもってラジオとレコードを聴いた。家族と行った一度きりの海もずっとカーラジオを聴いていた。ブライアン・ウイルソンの気持ちが後になってわかった。そう「スループ・ジョンB」もこの頃のヒット曲。「ペット・サウンズ」が歴史的名盤になるなんてあの頃誰が思っただろうか。「キャロライン・ノー」の歌詞を10代で理解するなど、土台無理というもの。

ラヴィン・スプーンフル「サマー・イン・ザ・シティ」も夏の終わりに聴いたような気がする。かっこいいロックン・ロールにノックアウトされた。今でも僕の好きな曲のベストテンに間違いなく入る曲だ。ウッドストックに出演したソロになったジョン・セバスチャンの姿にはがっかりさせられたが・・。マンゴ・ジェリーの「イン・ザ・サマー・タイム」も聴くたびに東京の暑い夏を想い出す。

僕が昔やっていた、ケーシー・ジョーンズで働いたこともある30年来の友人が、東京で飲食業を始めるため札幌を離れると挨拶に訪れてくれた。彼の故郷は東京なのでそれも自然なことなのだろう。超一流のバーテンダーとして業界では一目置かれていた人だけど、新しい店はそんな技量を誇示するわけでなく、ノーチャージの60&70’sのアナログレコードを流す店にするそう。人にはフィットする場所が必ずあるものだ。穏やかな風のように生きてきた彼にとって(激しい風の時もあっただろうけれど)東京はもっともリラックスできる場所なのだろう。渋谷東急百貨店近くのいい場所のようだ。生まれ故郷の東京より長く住んだ北海道のさわやかな風吹かせてほしい。

Groovin' on a Sunday afternoon.........Groovin'....

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昨日より若く

GERSHWINがちょっとしたリニューアルをした。まずGERSHWINのあるサンスリービル地下の床、天井、壁が貼りなおされ、塗りなおされた。壁にあるGERSHWINマークを照らすレトロな電器傘も新しくなった。この場所に店を構え35年になるけど初めての改修じゃないのかな。しかし、なのだ。GERSHWINを訪れてくださる大部分のお客様が気づかない、気づいてくれない。

GERSHWINの店内では、飾っていたポスター類、LPジャケットを変えた。ザ・バンドの「ムーン・ドッグ・マチネー」のおまけだったポスターとLPジャケットを額に入れ20枚近く飾った。1960、70年代に発表されたLPばかりだ。みなデザイン的にも見ごたえがあり、あの時代を象徴するLPだ。ロックのレコードを額に入れて飾るなど一昔前など考えもしなかった。ロックの殿堂があるくらいなのだ、ロックはそういう音楽になった。

LPレコードを聴けるようにプレイヤーもレストアした。35年前始めた僕の最初の店「CASEY JONES」時代に使っていたDENON製のもので、何とメーカーで修理を受け付けてくれたのだ。レコード針はこれもCASEY JONESで使っていたアメリカ製のスタントン。さすがに同じ型はもう作られていなかったが、あの頃使用していたカートリッジに新しい針が適応してくれた。35年前がよみがえったような気がして、ちょっとした感動だった。

ボトルキープ棚の一部をアナログレコード収納棚に変更した。友人、お客様たちが協力してくれ約300枚くらいのレコードを集めた。中古レコード店にも足しげく通って、CASEY JONES時代に所有していたアルバムを買い直したりもした。今の時代中古LPは廉価なので今後も増やしていこうと考えている。久々のレコード店めぐりはなかなか楽しいものだ。

ホームページも写真を入れ替えたり、古くなった情報を変更した。GERSHWINのロゴマークに記されているコピーをPOP MUSIC of the 20th CENTURYに変えた。そして新しいコンテンツを増やした。BACK TO 60's&70'sと題されたお客様参加のロックを(で)語る音楽コラムだ。それぞれの方にブログをもっていただき、GERSHWINホームページから発信される。管理人の富樫さんが各々の方のページの表紙デザインをしてくれている。年齢も様々、みなさん個性あるタイトルを冠し、今後の展開が楽しみだ。

この時代に「ロック」、とはいささかアナクロにすぎるのではとの声も聞こえてきそうだが、そもそもロックってどういう音楽だったのだろう。震災後ご存知内田裕也氏がまたいろいろやらかしてマスコミの格好のネタにされている。彼の錦の御旗は「ロック」だ。「ロックン・ロールだぜヘイベイビー」、一昔前はこれで十分かっこよかったのかもしれないが、火の玉ロックのジェリー・りー・ルイスなんかのステージと同類で、今の時代においては、お笑いのカテゴリーだろう。

といって、では裕也世代の後ロックンロールに雷打たれた者たちにとって、自分たちの聴いてきたロックは今でもかっこいいもの、と自信をもって答えられるのだろうか?古臭くなっているのにそこしかしがみつくものがなくこだわり続けているだけじゃないのか?そもそもティ-ンエイジャーのかかるはしかのようなものを今でも引きずっている大人っていったいなんだ?裕也氏と自分の違いをきちんと言える?

僕にとっての「ロック」とは早川義夫氏の言葉を借りるなら「かっこいいことはなんてカッコ悪いんだろう」いいかえると「かっこ悪いことはなんてカッコいいんだろう」というフレーズに集約される。かっこよさの定義など常に変わる。既成の価値を疑え。人を支配しようとするな。自分を疑え。カッコよすぎるか?カッコ悪いね。みなさんに大いにご自分の「ロック」を語っていただきたく考えている。ブログ発信希望者は随時募っているのでGERSHWINまでご連絡いただきたい。

フルサークルという言葉がある。人生一巡りしてまたスタートラインに立つ、といった意味だ。細野晴臣さんの新譜「HOSONOVA」などを聴いているとまさしくそれを感じる。次の世代から眉をひそめられないように、お荷物にならないように、できればちょっと尊敬される生き方とは・・。
 
I WAS SO MUCH OLDER THEN,I 'M YOUNGER THAN THAT NOW 
    あの頃は今より年老いて、今はあの時より若い
      「MY BACK PAGES(BOB DYLAN)」


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THE WATER IS WIDE

このたびの東日本大震災、被害にあわれた方、大切な人を失った方たち、その深い悲しみから立ち直れますように。亡くなられた方には心からのお悔みを申しあげます。

そんな時自分には何ができるのか、無力感にとらわれる日々が続くが、宮田あやこは毎日のライブの中でスコットランド民謡ともアイルランド民謡とも言われている(ケルト民族の歌ということかな)「THE WATER IS WIDE」を歌い続けている。この歌が鎮魂歌としてふさわしいのかは正直わからないが、ちっぽけな人間の存在を支えている愛の力を信じたくてこの歌を選んだようだ。

THE WATER IS WIDE
The water is wide, I can't cross over
And neither have I wings to fly            
Give me a boat that can carry two          
And both shall row, my love and I                                            

Now love is gentle and love is kind           
The sweetest flower when first it's new       
but love grows old and waxes cold and fades away 
like morning dew                                                      

There is a ship and she sails the sea
She's loaded deep as deep can be           
But not as deep as the love I'm in          
I know not how I sink or swim 

向こう岸ははるか遠く
私には渡りきることができない
空をかける翼もない
私たち二人を運ぶボートをください
そうすれば二人で漕ぐでしょう
私と私の愛する人で

あぁ 愛はやさしく温かなもの
最初は新鮮でかぐわしい花
でもいつか成長を止め輝きをなくし
朝露のように消え去ってしまう

海を進む船は
積み荷で水中深く沈んでいる
それだってこの愛の深さには遠く及ばない
あまりの深さに
私は泳ぐことも沈むこともできない
             

伝承歌なので何種類かの歌詞がありこれぞ決定版という決まりもないようなのだが、1960年前後アメリカのフォークシンガーたちによって歌われ、ピーター、ポール&マリーなどは一部歌詞を変え「THERE IS A SHIP」というタイトルで自分たちのオリジナルとして発表している。著作権うんぬんが今ほどに厳しくない時代だったにせよ、ぬけぬけと作者としてクレジットしてしまう感覚は「なんだかなあ」、という思いにとらわれざるを得ない。

この曲様々な音楽家によってカバーされている。ジェイムス・テイラー、リンダ・ロンスタット、白鳥英美子、カーラ・ボノフ・・・とりわけカーラ・ボノフヴァージョンはテレビのCMで使われたり、この日本では最も有名なテイクかもしれない。ギター&コーラスをジェイムス・テイラーが間奏ではザ・バンドのガース・ハドスンが素晴らしい本当に素晴らしいアコーディオン・ソロを弾く。

あやこがこの歌を歌い始めたのは40年続くセンチメンタル・シティ・ロマンスというバンドの札幌公演にゲストで呼ばれた時だったから6年ほど前のことだ。さすがセンチ、見事なバッキング、コーラスワークだったけれど、間奏の細井豊君のアコーディオンソロはいまでもほのぼのと思いだすことができる。竹内まりや「人生の扉」等の名演奏でも知られる彼はそこでガースの完全コピーをやってのけたのだ。あの細井君がカンコピとは驚いたし、ステージ終了後メンバーの中野督夫君に「やりすぎじゃ」と細井君が意見されていたのを見聞き出来たのも現場にいて楽しかったが、細井君がアコーディオン奏者としてあのガースの名演奏に敬意を表しコピーした(一回弾いてみたかった)経緯は良く理解できる。圧倒的なものに出会ったとき人はひれふすだけだ。

ローリング・ストーンズの名曲の数々を書いたキース・リチャーズが「オリジナル?俺の作曲方はね、好きな曲をギターで何度も何度も弾くんだよ。そのうちマジックが起こり新しい曲に生まれ変わるってわけさ。天からの贈り物なんて待っていたら一生に何曲作れるものやら(宮田意訳)」。とどこかで語っている。ディランの「風に吹かれて」にもジョンの「ハッピー・クリスマス」にも、誰でもわかる元歌が存在する。THE WATER IS WIDEという名曲を自分たちのものとして何が何でもクレジットしたかったPPMの気持ちもわからなくはないが・・・。

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ウッドストックとドン・フェルダーとノルウェイの森

正直言って今この時期BAR GERSHWINは暇である。お客様から「何をいまさら、今に始まったことではないでしょ」と切り返されそうだが、暇な店でも暇な店なりの暇があるのだ。そんな時こそチャンス!とばかりに普段できないことに時間を割けばいいのだろうけど、時間がたっぷりあること自体何かのモチベーションにはなりえない。仕事が忙しければ忙しいほど、何かをしたくなるものだ。GERSHWINに飲みにくるお客さまも増える。日本人はつくづく勤勉なのだと思う。何の罪悪感もなく昼寝を毎日できる国の人が羨ましい(してるって)。

といっても読書や映画鑑賞はぼちぼちやってます。つれづれなるまま美味しかったところをご紹介しよう。

「ドン・フェルダー自伝」。イーグルスのギタリストであり「ホテル・カリフォルニア」の原型を作った音楽家。イーグルスを首になりそのショックから立ち直りつつある自分の半生をつづったもの。イーグルスに関して書かれた部分は公になっている部分が多くそう驚かなかったが、イーグルスはドン・ヘンリーとグレン・フライのバンドなのだ、ということがこれでもかというほど書かれている。ビートルズがジョンとポールの、ストーンズがミックとキースのバンドであるように、だ。そこに異議を唱えてしまったところにドン・フェルダーの解雇理由があるのだが、太陽に立ち向かって焼かれてしまったようなものだ。フロリダ出身の純朴な男として自分を描くが、自伝なので割り引くことも必要だろう。幼いころのバーニー・リードン、オールマン兄弟との出会い。スティーブン・スティルスと学生バンドをやっていた、トム・ペティのギター教師であったという逸話など田舎暮らしをしていた割には華麗な交流をもっている。それほどに卓越したギタリストだったのだろう。イーグルスは今でもイーグルスショウを完璧に遂行し続けているが、ドン・フェルダーのギターがないイーグルスは魅力の1/4は損なわれている。

「ウッドストックがやってくる(TAKING WOODSTOCK)」は傑作「ブロークバック・マウンテン」の監督アン・リーが映画化したというニュースを聞き映画公開を待ちきれなく原作を読んだ。ウッドストック・ミュージック・フェスティバルの会場を提供したホワイトレイクという町の商工会議所会長で会場誘致の仕掛け人エリオット・タイバーという人の自伝を含めた開催に行きつくまでのてんやわんやが描かれているノンフィクション。ウッドストックという場所でコンサートは開かれたという誤解は今でもあるけれど、これは主催者であるマイケル・ラングはじめ4名の会社名を冠したものである、ことなどあの時代が今起こっているかのようにいききと描かれていて感心した。伝説ののイベントを短期間で成し遂げてしまったのだからこのイベントはある意味奇跡であったことを再確認した。映画で「聖書の中の出来事」とジェリー・ガルシアがいみじくもかたっていたように。
またこのレポートには虐げ続けられたゲイである著者がウッドストックを通して自己を再確認して新たな旅立ちを始めるまでが描かれている。ある意味そちらの記述の方がずっとインパクトがあった。映画はまだ観ていないけれど、アン・リー監督が映画化したのはそういった側面があったからではないのかな。

映画「ノルウェイの森」。1980年代のベストセラーをベトナム系フランス人トラン・アン・ユンが監督した作品。原作を読んでから映画を観ると自分のイメージとの折り合いをつけるのに苦労する場合が多々あるが、この映画はあの時代を丁寧な時代考証で描きつつ、時代を超えた息吹を感じさせる作品となっていて、違和感を持てずに観ることができた。あらゆる表現にはいろいろな解釈が許されるけれど「ポルノ映画みたい」だったとのGERSHWINのある女性のお客様の感想は愉快だった。100%恋愛小説のコピーとベストセラーを隠れ蓑に堂々とポルノ小説?を読む権利を得た若者があの時代少なからずいたようなのだ。うん確かに今期の芥川賞受賞作「苦役列車(西村賢太著)」などのリアリティある性描写などより「ノルウェイの森」の方が端正な文章で淡々と描かれる分だけすごいですね。「中学生時代」の他愛ない小説で胸をときめかせていた時代とは隔世の感がある。僕も10代で読みたかった。

「Norwegian Wood」は今では「ノルウェイの森」ではなく「ノルウェイ製の家具」というのが本当の意味なんだ、との解釈が勝っているようだが、翻訳家としても知られる村上春樹は彼の「雑文集」で、異議を唱える。この「Norwegian Wood」という規定不能な言葉の響きがこの曲を支配している,狭義の解釈はこの曲の奥深さを損なってしまう、と書く。また村上春樹はジョージ・ハリスンの事務所に勤めていた女性から、この部分Knowing She Wouldと当初書かれていたとジョン本人から聞いたという話を披露している。Isn’t It Good 、Knowing She Would?直訳すると「彼女がやらせてくれるとわかっているのは素敵だよな」レコード会社の反対にあいジョンがその部分を「Norwegian Wood」に変えたのだそうだ。真相は?だけどジョンは死後30年経っても僕らに解き明かせない謎を残したのだ。そういうのって素敵だね。

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どんな道を通っても

新聞のお悔み欄で札幌向陵中学校2年3年生時の担任IF先生のご逝去を知った。一年を振り返る年の瀬ということもあって、昨日は先生から学び導いていただいたあの頃が頭の中を駆け巡った。

もう一つの人生があったとしたら、と一度はみなさん空想したことがあるだろう。人生の分かれ道に人は何度も遭遇する。自分の力で道を決める人もいれば、誰かに後押しされてる場合だってある。決断しないままず~っとなんて人生もあるかな。しかしどのような道を通っても結局最終ゴール地点は大して変わらないような気がするのだ。

僕はきわだった個性があるわけでなく、リーダーシップもなく、平凡な害にも益にもならない生徒だった。たとえば小学校の遠足などでよく遊んだ「花いちもんめ」。目立つ子ばかりが指名されるこの遊び、思えば残酷なゲームだった。でもいつか名前を呼んでもらえるかとゲームを続けた。

自分をなんとなくわかり始める13~4歳IF先生に教わったのはそんな年頃のころだった。今でいう生活指導のようなことをIF先生はやっており、全校朝礼では眼鏡の奥を光らせ壇上から生徒を「お前たち」呼ばわりし生活の在り方を説いた。学校を抜け出した不良学生の首根っこを捕まえ学校に連れ戻す姿を目撃したこともある。学校では生徒にやられる教師たちを見かけたこともある。教師も身体を張らなければならない時代だったのだ。そばに寄っただけで震えあがりそうなIF先生にかかわるのはまっぴらごめんと思っていたら、中2でクラス替えがあり僕の2年5組の担任はIF先生だった、アッチー。

しかしIF先生、クラスでは別人だった。あの光っていた目の奥は、一個人を見守るときには温かい灯がともっていた。あの時代だから先生から手とり足とり学んだことはないが、先生たちは大きな視点で子供たちを見守っていた。僕が何かの間違いで学級委員長に選ばれた時、全くクラスをまとめられなくてもいつもニヤニヤ何のアドバイスもなかった。通知箋が上がった時の「頑張ったな」!の一言はどれほど嬉しかったことか。中2まではそんなに勉強しなくともそこそこの成績は取れるものだ、しかし受験が近付く中3になると一夜漬け勉強では成績は立ち行かなくなる。そのころポップミュージックの虜になり始めた僕は、勉強よりラジオが優先だった。当然成績は下がり始める。初めて先生から呼び出しを食った。「このままでは志望校に行けなくなるぞ」カツが入った。打たれ弱い僕はうなだれるしかなかったが、反省が持続しない僕の成績が再び上昇することはなかった。受験期、公立高校入試前に私立高校の受験がある。ほとんどの生徒は私立高校を滑り止めと考えていた。私立高校受験を終えた僕は浮かれ気分で友人3人と狸小路「にしむら」にでかけミートソーススパゲッティとファンタを食し札幌劇場へ向かい黛敏郎音楽、映画「天地創造」を鑑賞。その足で受験報告をしにいったら先生からは呆れかえられ大目玉。案の定その3人は志望公立校受験に失敗。

ここからは何年か前に聞いた僕の母親の記憶の話。僕の記憶からは抜け落ちている。僕が高校受験に失敗したその年、ある名門校が定数割れをし追加募集をした。IF先生より「宮田も受けた方がいい」と連絡があった。それを聞いた僕は「もう私立高校に決めたからいいよ」と公立高校受験にはまったく興味を示さなかったらしい。あきらめの早さと、煩わしいことを回避する性癖はこのころすでに形成されていたようだ。公立高校受験に失敗した子の親には一人一人にお詫びのあいさつをしたと後になって聞いた。気を遣っていただいた先生には本当に申し訳ないことをした。

私立高校に進んだ僕は勉強からの束縛から逃れ自分の世界に没入する。そこで生涯の友人の一人を得、それが妻のあやことの出会いにつながってゆく。IF先生の指示にしたがって、もしもう一つの進路に進んでいたらどういった人生が待ち受けていたのか?どういった道を辿ったかは「神のみぞ知る」だけど5回目の干支を迎える今の自分と大差はないような気がする。「遠回りしても、きっと出会っていた。」あやこと僕には確信めいたものがある(おのろけだと思うならどうぞ)。出会うべき人に、人はきっと出会う。その出会いをどう発展させるかも、その人次第。人は幼少のある時期からとっくに歩くべき自分の道を知っている。

先生、追悼文になっていなくてごめんなさい。しかし先生と過ごしたあの二年間は、まさしく今の自分の原型が築かれた時でした。先生がそこにいてくださるだけでありがたかった。自分の子供への接し方も先生から知らずのうちに学んでいたかもしれません。ご冥福をお祈りします。岩井先生、ありがとうございました。

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GRAHAM NASH               「Songs for Beginners」再聴

16年ぶりに家の引っ越しをした。引っ越しを通して歳を重ねると、無駄なものを随分としょい込むということが良くわかった。いつも風通しのよい自分でいたいと思うけれどなかなかそう簡単にはいかない。いつの間にか澱がたまってしまう。その澱こそが自分の証であるということが一方では事実であるのだけれども・・。札幌市中央区の様々な場所を新居候補に探したが結局生まれた場所のすぐ近く、どじょうやトン魚取りをした小川が目の前(心の目)に見える1974年5月に建てられた古マンションを選んだ。ゆったり作られ、各部屋の独立性も保たれ今まで住んでいた一軒家よりはるかに静かで落ち着いた環境が今のところ得られている。大変な作業だった引っ越しを終え一ヵ月半、ようやく普段の生活に戻りつつあり、心の余裕ができ始め、PCに向かう時間もとれ始め、GRAHAM NASHへのトリビュートアルバム「Be Yourself」が発表されていることを評論家天辰保文さんのHPで知った。彼のアルバム「Songs for Beginners」が曲順どうり様々な音楽家により再現されている。

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グレアム・ナッシュは今年ロックの殿堂入りした英国ロックグループ「ザ・ホリーズ」のオリジナルメンバー。脱退後アメリカに渡りCS&Nを結成。ニール・ヤングを加えCSN&Yに。1970年代初頭世界で一番注目されるロック・ユニットだった。「Songs for Beginners」はCSN&Yで活動中の1971年に発表された彼の初ソロアルバム。早速タワー・レコードに出かけこのトリビュートアルバムを店員さんに見つけてもらった。が、演奏者たちはグレアムの娘始め初めて聞く名ばかり、この手のトリビュートアルバムにありがちな若手音楽家による新解釈物と推測される。購買を逡巡していたらグレアムのコーナーに彼自身の「Songs for Beginners」のリマスター盤を見つけた。2008年に発売されていたものでしかも二枚組でDVDオーディオ、インタビュー映像までついている。先ほどまでの鼻息の荒さはどこへやら、即宗旨替えしてこのグレアムの二枚組CDを購入。

CSN&Yの中で一番控えめであったグレアム・ナッシュだが「Songs for Beginners」は僕にとって特別なアルバムだった。10代最後の年、将来の指針さえ描けない時期、「Be Yourself」「There's Only One」「I Used To Be A King」「Better Days」「Simple Man」その頃の自分が渇望していた人生の解答をこのアルバムからは得られるような気がし、むさぼるように聴いた、がしかしその頃の自分には、「何かを始めようとしている人のための歌」を真に理解することはできなかった。言葉の意味は、時代のムードの中で踊った。あの頃の自分はいったい何を欲していたのか?グレアム・ナッシュの世界はモラトリアムだったのか?

CSN&Yで発表されヒッピー賛歌とも揶揄された「Teach Your Children」、も彼の曲だ。どの世代にも切実な親と子の永遠のテーマをうたった歌だ。親と子の関係で思い悩むとき書物でもなく、人のご託宣でもなく僕はこの歌を口ずさんでみる。「彼らにどうしてって聞いちゃいけないよ、答えを聞いたら君は泣いてしまう。彼らをしっかり見つめてそしてため息をひとつ。ほら彼らは君のことを愛しいることがわかるでしょ?」彼は歌という武器で、人生の真実を探し続けた。時代が味方した部分も大きくはあるが・・。

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リマスタリングされた「Songs For Beginners」はニューリミックスもなされオリジナルアルバムとはがらりと表情を変えよりリアルな音像が提示される。「。一曲目「Military Madness」ステレオの音がオリジナルとは左右逆になっていて、アコースティックギターの音色が弩迫力となり、後奏のデイブ・メイソンのギターソロは30秒も長く激しさを増している。この一曲を聴いただけで、懐古趣味でこのアルバムをリマスタリングしたしたわけではないということが分かる。オリジナルではカットされていたヴォーカル、叫び声が何箇所も復元されている。「I Used To Be A King」など曲のスケール感まで違っている。「Chicago」でも,前奏の部分からアコースティックリズムギターが強調され「4Way Street」並みのインパクトを得た。「Simple Man」「Sleep Song」に見られるように彼の世界はやさしさ、誠実さ、温かさなどの表現で片づけられがちだが、それだけの音楽家だったら人の心を打つ音楽を生み出し続けることなど出来やしない。

華麗なる女性関係(ジョニ・ミッチェルとの失恋の歌を新しい恋人リター・クーリッジと録音し、バーブラ・ストライサンドの家で作った彼の2ndアルバムのAnother Sleep Songという曲ではレコーディングに別れたジョニ・ミッチェルが参加、プロデュースしたジュディ・シルとも・・)このもてさ加減は常人には想像を絶するもの。世の中にはとんでもない人がいるものなのだ。

1971年東京のアパートのトランジスタラジオから深夜流れてきたグレアム作CSN&Yの「Chicago」ライブバーション。安ラジオからにもかかわらずその熱さは痛烈に伝わってきた。「We Can Change The World」との歌詞が強烈だった。あの頃はひょっとして音楽で世界が変わるのではと半ば信じていた。それから40年、さて、自分はちっぽけな自分自身の世界だけでも変えることができたのだろうか?

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ブライアン・ウイルソンの新譜はガーシュウィン

今年も開かれたライジング・サン・ロック・フェスティバルインEZO、今年の出演者最大の目玉は山下達郎。数十年ぶりのロック・フェスティバル出演とかで格好の話題となった。その二日後に札幌公演TWO DAYSが予定されておりばっちりスケジュールがあったということなのだろう。ライジングサン、札幌公演ともに素晴らしかったようだ。20年続いている達郎のFMプログラム「サンデイ・ソング・ブック」を聞いてみると彼の言葉の端はしにコンサートの充実感、満足感がうかがえた。3時間は優に超えるというライブステージを一度は体験してみたいと思っている。

ライジングサンを終える頃になると北海道には一気に秋の気配が押し寄せるのだけどALL SUMMER LONG今年は夏のままだ。そんな終わらない夏に素晴らしいプレゼントが届いた。ブライアン・ウイルソンの新譜が発表されたのだ。タイトルは「Reimagines Gershwin」。ブライアンがジョージ・ガーシュウィンの作品ばかりを集めて制作したアルバムだ。「ラプソディ・イン・ブルー」がブライアンにとって特別な曲であるとは知っていたが、とうとう来る時が来た、、との感慨はきわめて深い。

くどい説明は省くが20世紀はポピュラー音楽の世紀としてきっと未来の歴史家たちは位置づけるはずだ。そんな20世紀音楽の流れにあってガーシュウィンは源流でありブライアン・ウイルソンはその流れにのったボート・マン。今はいくつもの支流をもつ存在。音楽の河は21世紀になっても流れ続けているが支流が多くなりすぎて洪水があったり堰どまったりしても気づけなくなってきてしまった。そんな時代にあって、ブライアンが源流の再確認作業を行ったことは彼の個人的な事情であるにせよ、その意義は大きい。

全14曲。ガーシュウィンの未完成の曲に詩とメロディをブライアンらが加えて完成させた曲が2曲。ガーシュウィンの曲がすべてブライアンの世界に置き換えられている。2曲目ガーシュウィン/ブライアン合作の「The Like in I Love You」 ブライアンの新曲と言われても何の違和感も持たないだろう。山下達郎をほうふつさせる?コーラスが曲をより感動的なものにしている。涙がこぼれそうなほど素敵な曲だ。ポギー&ベスから4曲がメドレーで。「Summertime 」「I Loves You Porgy」歌声の衰えは隠しようもないが歌詞への深い理解がそうさせるのか、心が動かされる。「I Got Plenty o' Nothin'」、「Pet Sounds」ファンはニヤッとしてしまうだろう。「It Ain’t Necessarily So」はかっこいいブライアン風ブルーズ。

7曲目「’S Wonderful」はボッサ&ラテンリズムをブライアン風に料理している。。ガーシュウィンの時代は当然まだボサノヴァは生まれていなかった。ガーシュウィンがボッサを知っていたらきっとこのようなアレンジにしたのではないか。宮田あやこも新作「Dream A Little Dream」でこの曲を取り上げていて、ごく自然にボッサアレンジで歌っている。コーダではスキャットも入れているのだけど、フィルスペクター風というか大滝栄一風というかそんなメロディで歌われる。そこにはボサノヴァ、ガーシュウィン、プリル・ビルディングの融合がある。そうやって音楽の継承はなされていく。

10曲目「I've Got A Crush On You」3連のピアノ前奏、ドゥーワップ風味のブライアンコーラス、スライドギターの間奏。まさしく夢見るアレンジ。ガーシュウィンが聴いたらおったまげるだろうけど、僕はこのアルバムで一番好きな曲だ。8曲目「They Can't Take That Away from Me」はシャッフルビート。10曲目「I Got Rhythm」はビーチボーイズ風ロックンロール仕立て。かっこいいこの二曲は踊りださずにいられない。12曲目「Someone to Watch Over Me」68歳の夢見る少年ブライアンが歌っている。

この文章を書きながら途中からこの新作を聴きだしたら活字を連ねる気力が失せてきた。もっと書きたいことがあったはずなのだけどまあいいや。すべての人に聴いてほしいとは思わないけれど、少なくても60年代の音楽の洗礼を受けた人には聴いてほしい。すごく勇気をもらえる音楽がそこにはあります。

来年度のグラミー賞いくかも。

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宮田あやこデビュー30年に寄せて・・

この7月21日は宮田あやこがエピックソニーからデビュー・アルバム「Lady Mockin' Bird」を発表してちょうど30周年の日にあたる。サンディーの細野晴臣プロデュース「Eatin’ Plesure」大貫妙子坂本龍一プロデュース「Romantic」なども同じ日だった。同じエピックからは佐野元春があやこの数か月前にデビューアルバムを発表している。

何か記念的なイベントをとも考えているのだが、何かを起こさない限り時間は淡々と進む。今年も半分経過してしまった。僕が始めたロックカフェ&バー「ケイシー・ジョーンズ」もこの7月8日で34年たった。そのころから親交のあった知人お二人がこのひと月の間に亡くなってしまった。心にぽっかり隙間ができたような気分だ。僕は彼らのことを忘れないが、彼らの僕の記憶はもうない。こうやって人は死への覚悟ができていくのだろう。

亡くなった一名の方はかつてお名前がメディアその他に頻繁に登場した方なので実名で記しても問題がないと思うので書くが、現在も続く札幌STVラジオの名物深夜プログラム「アタックヤング」で1975年から1981年まで毎週日曜日深夜のDJをやっていた横山和之氏だ。

21才でDJに抜擢され、22才の時には地元タウン誌「ステージガイド」の編集長まで務めた。早熟に才能を開花させた人だった。僕がケーシー・ジョーンズを開く前年夏休みで帰郷中に「楽屋」という喫茶店で知り合った。若くして頭角を現した人にありがちな自信にあふれていたが、たまたま高校が同じで僕が2年先輩に当たるということがわかり、常に「さん」付けで僕を呼んでくれた、かっこいいシティボーイだったがまた礼儀正しい人でもあった。

「ケーシー・ジョーンズ」開店後もステージガイド誌でたびたび特別扱いで紹介してくれた。彼はアメリカ西海岸のバンド、ポコをほうふつさせるバンド、グッドラック・アヴェニューのマネージャーも兼ねており、アメリカ志向の音楽に深く理解を持ち、DJでもそんな音楽ばかりをかけまくっていたし、おそらく僕を同士とみなしてくれていたのだと思う。僕は僕で東京から北海道に戻ってきて、物足りなく思っていたところに得た貴重な友人であった。

宮田あやこがプロデビュー出来たきっかけも彼が作ってくれた部分がある。横山氏が親交のあった名古屋のセンティメンタル・ファミリー、そこの代表の竹内正美氏を札幌で引き合わせてくれたのだ。竹内氏がケーシーで聴いたあやこのライブテープを聴き気に入り、彼がマネージメントするセンティメンタル・シティ・ロマンスとの共演をその場で約束してくれた。共演は翌年センチの北海道公演で実現しあやこは歌の自信を深めることになった。センチはあやこのデビューアルバムにも参加、メンバーたちとは今でも親交が続いている。

あやこがデビューした時は彼の番組であやこをゲストに番組丸ごと1時間の特集を組んでくれた。録音された番組を家で聴こうよと誘ってくれ、深夜中島公園そばにある購入したばかりの彼のマンションで一緒に聞いた光景が忘れられない。

当時札幌には「ジッピータイムス」という月刊のミニコミ音楽誌があり論客が意見を述べ合っていた。あるとき彼はそこに突然松山千春礼賛の文章を書いた。反論の集中砲火浴びたが屈することなく「彼ほど男らしい男はいない」と反論した。やがて千春の事務所に入り、音楽プロデューサーとして長い間松山千春の黄金期を支えた。

松山千春の仕事が忙しくなり僕もケーシー・ジョーンズを閉め関係もだんだん疎遠になってしまったが、年賀状だけは毎年欠かさなかった。音楽に関した一文が必ず添えられていた。娘がSTVに就職した時も声をかけてくれ、応援してくれていたようだ。

横山君のアタックヤング最終回、僕は仕事を終えタクシーに乗り、運転手にSTVラジオをかけてくれるようお願いし彼の放送を聞いた。番組終了間際、彼が最終回はこの曲をかけるんだと語っていたオーリアンズの「Ending of a song」を流し涙声で感謝の言葉を述べ始めたその時ちょうどタクシーはSTVの前を通りかかった。熱いものがこみ上げた僕は車を止め、STVに行って彼に言葉をかけようかと思ったが、逡巡している間に車はSTV前を通り過ぎた。一つの時代が終わったと漠然と感じた。翌年3月僕もケーシー・ジョーンズを閉めた。かっこよくて、お坊ちゃまで、負けず嫌いで、輝いていた彼の声が今でも耳に残る。あの最終回「ありがとう。お疲れ様」の声をかけるべきだったと、今でもちょっぴり後悔している。


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ロック評論家天辰保文氏 GERSHWINに 登場!

1960&70年代にロックを聴いた(洗礼を受けた?)者たちにとって、音楽評論家という肩書は恐れ多いものである。1960年代半ば、福田一郎、湯川れい子、木崎義二、朝妻一郎、桜井ユタカ、大森庸夫、星加ルミ子・・・お名前を書き連ねるだけであのころの情景がよみがえる。ただこの時代は英米の音楽情報をいち早く届けるのが諸氏のお仕事で、ロックを論じるといったことはそうなかった。1969年に創刊された「ニュー・ミュージック・マガジン」は画期的な音楽マガジンだった。音楽以外のジャンルで活躍する人たちにも発言の場を与え、ロックが言葉で語られはじめた。やがて時代とともにロックが発展細分化され音楽評論家もそれぞれ得意分野を持つようになった。小倉エージ、北中正和、渋谷陽一、水上はる子などといった人たちがブイブイ書きまくる時代となった。天辰保文氏は70年代初め「ミュージックライフ」「ヤングギター」編集部にいて彼らよりちょいと遅く音楽評論家としてのキャリアをスタートさせる。

天辰氏は、僕らにとっていつの間にかそこにそっといた評論家といった趣があった。やさしくわかりやすい温かな筆致は当時のアメリカ西海岸、シンガーソングライターの音楽とシンクロした。たとえば僕にとって彼の文章はダン・フォーゲルバーグの音楽を想起させるし、ある人にとってはブルース・スプリングスティーンかもしれない。ニール・ヤング、ボブ・ディランかもしれない。多くのリスナーが彼の文章で音楽を追体験した。ライナーノーツ執筆は1000枚を超えるという。ライナーノーツは音楽のちょうちん持ち的な存在でそこには批評精神が介在する余地はないと一般的には考えられがちだが、天辰氏はそんな地点をひょいと超えている。音楽に温かな視線を注ぎ音楽家と正面から対峙する彼の文章はライナーノーツさえも一つのリアルな詩(うた))に変えてしまった。

北海道新聞に天辰氏が「音楽アラカルト」という音楽紹介コラムを持って10年、連載500回を超えたそうだ。北海道だけの地域限定コラム。ほとんど誰も知らないような音楽家もメジャーな音楽家も同列で紹介するこのコーナーは、一服の清涼剤的存在として月曜日夕刊に掲載されている。目まぐるしく変わる世の中でよくここまで続いたものだ。歴代担当編集者の尽力と、天辰さんの文章がますます深みを増してきていることがその要因であろう。800文字の中に音楽家と天辰さんの人生が凝縮され、さわやかな空気の向こうに透けて見える。(いつのまにか天辰保文的表現に)一昨年天辰氏の北海道新聞コラムとライナーノーツのための文章を中心にまとめた「ゴールドラッシュのあとで」が出版された。読みごたえのある一冊である。

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ひょんなことから天辰さんを、BAR GERSHWINにお招きすることになってしまった。あれよあれよという間に話が決まり、今となってはなんで僕が呼んだのかよくわからないのだが、これが自然の導きというものなのだろう。これだけのキャリアの天辰氏のお話と音楽紹介イベントをキャパわずか25席のGERSHWINでやっていいものか自問もしたが、企画は一回で終わらせたくない「音楽アラカルト」同様続けてこそ意義があると考え、もっと大きな会場で開催することをやめあえてGERSHWINでということにした。さすがに25席では収まらないと考え、入れ替えの2部制とさせていただいた。天辰さんのご負担も相当なものと思い、進行役に僕の古くからの友人山本智志さんを東京から迎える。70年代~80年代初めの5年間をミュージック・マガジン編集部で過ごし、激動のあの時代英米ロック、日本のロック紹介の最前線にいて日本の音楽シーンを作った。、現在は音楽ジャーナリスト、音楽書籍編集の仕事をしている。最近では「アサイラムレコードとその時代」「ジャクソン・ブラウン」が彼の重要な仕事のひとつだ。天辰さんとは義兄弟?のような方なので話はきっと面白く脱線してくれることだろう。

企画のとき僕には中学校時代視聴覚教室や図書館で行われた「レコードコンサート」がまず頭に浮かんだ。ビニール盤から流れる幸せな音楽。あの頃音楽は魔法にあふれていた。天辰氏、山本氏そして参加者のみなさんでそんな思いを共有できたら幸せだ。「ロックの昨日今日明日を語る」というインパクトある素敵なタイトルは山本氏命名、さてどんな音楽&お話が飛び出るのかな?

昨日北海道新聞にイベント告知の文章が載ったのだが、今回北海道新聞の歴代「音楽アラカルト」担当者の方々から積極的なご協力を頂いた。告知文章も熱の入ったもので、担当の方の天辰さんに対する思いを改めて感じてしまった。早速電話予約が相次いだが、全員女性!「天辰さんのファンなんです」皆さん口をそろえる。ロック叔父さんが顔を連ねるシーンを思い描いていた僕の甘いイメージはすでに覆った。若い方、古い方ロックマインドを失っていない方の参加をお待ちしています。

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「1Q84 BOOK3」 男は女に選ばれる

村上春樹「1Q84 3」三日で読了。昨年5月30日に1,2が発売されて以来、さまざまな評価が飛び交った。丸谷才一氏始め昨年の最高文学作品にあげる人がいる一方、村上春樹アレルギー患者たちはここぞと村上たたきにまわっっているようだ。

元文科省事務次官寺脇研氏 音楽評論家杉原志啓氏ら保守系論客による日本文化チャンネル桜(スカイパーフェクトTV)の2009年の文化を振り返る座談会をたまたまインターネットで発見し、出席者の顔ぶれに興味をひかれついつい見てしまった。

寺脇研氏、約40年前僕が10代でキネマ旬報誌定期購読者の頃彼は大学生で「f読者の映画評」の常連だった。彼は世の中から顧みられない二流、三流ピンク映画ばかりを取り上げ、作品を褒めることに徹し,どの作品にも温かな視点を注いだ。それらの映画を見る機会はなかったが、彼の投稿そのものを楽しみにするまでになった(今の時代だったら褒め殺しと言われてしまうかもしれないが)。東大卒後後文部省のやり手官僚として辣腕をふるい、事務次官に上り詰め「ゆとり教育」を推進した。「ゆとり教育」の是非はともかく、あのピンク映画に注いだ視線(弱者への視点)を知っているが故、どこかシンパシーを持ち続けていた。杉原志啓氏の著作は何冊か読ませていただいている。大学講師(日本政治思想史)という肩書きを持ち、古いロックへの造詣は深い。

彼らの村上春樹アレルギーは相当のものだった。「イスラエルでのスピーチはいやらしい。」「彼の方こそ今やシステムだ」「奥さんの前で下着姿にならない男の小説なんて読まない」「どうして「ノルウエーの森」を日本人監督に作らせないんだ」等普段論理的に語る彼らが村上春樹批判となると途端にヒステリックになる。どうやら村上春樹の無国籍/コスモポリタニズム(村上氏はそんなこと意識して書いているのか)を彼らは気に入らないらしいのだ。世の中にはいろいろな人たちがいるものだ。

村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読んだ時、僕らの側から(何が僕ら側?)書かれた初めての小説に出会ったような気がした。そこではロックが生まれ同時に衰退の予感さえたたえ始めた時代の雰囲気が描かれていた。どこにも帰属しない、ある種諦観の視点があり、音楽が言語化されたようなおもむきもあった。日本ジャズの視点で作られた大森一樹監督映画「風の歌を聴け」が失敗作に終わったのは当然のことだったのだ。ひどい映画だった。それ以来彼は何篇かの短編以外映画化を認めない。故市川準監督の「トニー滝谷」は原作のイメージを損なわない良くできた映画だったのだが・・。

「1Q84」は1984年が舞台だ。「風の歌を聴け」の発表は1979年。しかしこの二作品には大きな差がある。とくに物語を紡ぐ力の違い。3階級くらいクラスを上げたボクサーほどに違う。400字原稿用紙3000枚の大作、正吾/青豆の邂逅はラストほんの数十ページ。ここまで引っ張る力はやはりすごい。この作品を貫くテーマは男と女が出会うということ。青豆(女性)のキャラクターが断然おもしろい。男は女に選ばれるのだ。欠けたピースを求める女に。世の中の自然生命の多くがそうであるように。

優れたロックリスナーでもある村上春樹であるが、実は彼はJAZZ BARの経営に大忙しでブルース・スプリングスティーンなどを除いて1970年代のロックは聴いていないらしい。もし聴いていたなら、作風は少し違ったものになったかも・・。ロック音楽に関して言えばあの時代はビッグビジネス化のときであり、シンガーソングライターに見られるようには内省的な音楽も数多くあった。1970年代後半はパンク、テクノ、スカ、AORが生まれ混沌の時代へと足を踏み入れるときだった。ロックは息絶え絶えになったが、スタイルの世界への伝播には成功した。その70年代のロックを語らせたらこの人の右に出るロック評論家はおそらくいないと思われる、天辰保文さんを札幌に迎え、6月6日(日)BAR GERSHWINで「ロックの昨日今日明日を語る」と題したトークライブを行う。そのことに関してはまた次回のこのコーナーで・・。

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